2014年06月27日

スティーブ・ジョブズが愛した禅僧、乙川弘文評伝F

なぜ、ジョブズは弘文を選んだのか?
「Kotoba」(集英社)2013年秋号より転載/文・柳田由紀子


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photo by Nicolas Schossleitner

若い頃から精神世界にのめり込んだジョブズが、
生涯でもっとも長い間向き合ったのが「禅」だった。
とりわけ、日本人の禅僧、乙川(旧姓・知野)弘文(こうぶん)との
30年におよぶ交流がジョブズに与えた影響は絶大だった。
その一端は、コミック
『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』にも描かれている。
知られざる禅僧の人物像に迫る。



「悩んだ時には、死んで棺桶に入ったつもりになって自分を見つめてみる。すると、どうでもいいことがたくさん見えてきて、余計なことを思い煩わなくなる。同時に、大切なものもはっきりとわかるだろう」
 これは、弘文が学生時代に師事した禅僧、澤木興道(こうどう/一八八0〜一九六五年)がしばしば語った言葉である。この言葉、どこかで聞いた憶えがないだろうか。そう、二00五年六月、スタンフォード大学の卒業式でスティーブ・ジョブズが行ったあの有名なスピーチだ。

「人生を左右する分かれ道を選ぶとき、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと私は思います。ほとんどのことがーー周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖などーーそういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです」
 以上、生前のジョブズが唯一公認した伝記、『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン著、井口耕二訳、講談社)からの引用したが、同書にはまたこんなことも書かれている。 
「集中力もシンプルさに対する愛も、『禅によるものだ』とジョブズは言う。禅を通じてジョブズは直感力を研ぎすまし、注意をそらす存在や不要なものを意識から追い出す方法を学び、ミニマリズムに基づく美的感覚を身につけたのだ」
 本人も認めるとおり、ジョブズが、禅の影響を色濃く受けたことは疑う余地がない。

 たとえば、アップル初期のパンフレットに大きく印刷された文章は、「洗練を突きつめると簡潔になる」。これはレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉だが、「引き算の哲学、美学」といわれる禅にも通底する思想である。
 たとえばアップルストア。全体にキンキラで派手好みなアメリカにあって、禅寺の石庭のごとくミニマルで静謐なアップルストアの存在は尋常ではない。
 では、禅と深く関わったジョブズは、なぜ、アメリカに数多(あまた)いる禅僧の中から弘文ひとりを選んだのか? この疑問に答えを見つけるべく、私は越前大野を目指した。
曹洞第二道場、宝慶寺を訪ねる

 福井県を東西に走るローカル線、越美北線(えつみほくせん)は、水上勉の小説『越前竹人形』の世界を現出したような鬱蒼とした竹山の間を進む。これらの山林が越前の名水を育むのだろう。福井駅から十五番目の駅、越前大野は名水の里として知られる。
 その越前大野の市街地から、さらに清滝川(きよたき)沿いをおよそ十二キロ。銀杏峰(げなんぽ)の谷懐に、杉や樅、ケヤキの巨木に囲まれた古刹が建っている。曹洞第二道場、宝慶寺(ほうきょう)。
 宝慶寺は、宗の禅僧、寂円(じゃくえん。一二0七〜一二九九年)が弘長年間(一二六一〜一二六四年)に開山した修行寺だ。如浄禅師の門下にあった寂円は、一二二三年に、やはり如浄禅師に参学した道元と出逢い、禅師の遷化後、道元を慕って来日した。そして道元が亡くなると、永平寺から南に四0キロ、標高五百メートルの地にこの寺を開いた。
 宝慶寺に集った求道僧には、道元と並んで曹洞宗の両祖と称される若き日の瑩山(けいざん/一二六四または六八〜一三二五年)の名も見られる。

宝慶寺

 かつては門前村だった宝慶寺周辺だが、数十年前からひとり、またひとりと村人が去り、今では無人の村となった。その上、冬期には、雪深いことで知られる永平寺の二倍もの雪が降るという。そのせいか、世界的な聖地として観光客が引きも切らない永平寺と較べ、宝慶寺には、禅道場の原形を思わせる清貧で張りつめた空気が流れていた。
 そんな厳粛な場を私が訪ねたのは、宝慶寺住職の田中真海師(七三歳)に面会するためだった。
「惜しい人物を亡くしました。二00二年に行われた道元禅師の七五0回大遠忌の際に、まだご存命だった永平寺第七八世貫首、宮崎奕保(えきほ)禅師が、弘文さんを日本に呼ぼうとされました。私も再会を楽しみにしていたのですが、彼はその年に亡くなってしまった。
 ジョブズの死後、弘文さんと彼の関係が話題になって、私は、なんとはなしにうれしい気持ちになったことを憶えています」
 座敷に通された私に田中師はそう語ると、「さあ、どうぞ」、後ろに控える侍者がたてた茶を差し出した。どっしりとした構え、ゆったりと落ち着いた口調、まさに高僧の風格が座敷全体に漂う。
 一九四0年、大阪に生まれた田中師の永平寺上山は、弘文より二年早い一九六三年。師は、その三年後の六六年、弘文他若干名とともに特僧生に推挙された。特僧生とは、将来永平寺の指導者になる雲水を養成する、いわばエリートコースである。それらの特僧生を、当時指導したのが宮崎奕保禅師だった。
「弘文さんは優秀で生真面目でした。宮崎禅師にも、一生独身を通すと誓っていたほどです。
 実は、サンフランシスコの鈴木俊隆老師からは、私にも渡米のお誘いがあったのですよ。ただ、私は地元、大阪の師匠から『六年間修行したのだから、これからは禅学を学べ』と説かれたので日本にとどまりました」
 田中師はその後の六九年に永平寺を下山(あざん)。駒澤大学大学院、永平寺別院・長谷寺(ちょうこく)、大雲山西光寺、永平寺の指導僧などを経て、九七年、五七歳で現職に就いた。宝慶寺住職の半数近くが、後に永平寺の貫首になるといわれるほどの重職である。




独身を通すと語った弘文

 前号で、私は弘文の異性関係と禅僧のあり方について考察した。以来、頭の中では、「泥池に咲く蓮の花」「風性常住(ふうしょうじょうじゅう)」「結婚は修行」といった言葉がグルグルと駆け巡っている。
 一方、宝慶寺では、住職をはじめすべての僧侶が、古規を守り独身を貫く。私は是非とも田中師に、弘文の生き方に対する意見を聞きたかった。
 田中師は言う。
「独身を通すと言っていた弘文さんが、渡米後すぐに結婚したと伝わり、永平寺で噂になったことがありましたな。渡米後の彼とは一度再会したきりでしたが、女性たちのことは風の便りに聞いていたので、晩年の彼を、私がちょっと冷めた目で見ていたことは確かです。
 あなたは、『婆子焼庵』(ばすしょうあん)という公案(禅を究明するための問題)をご存じですか?
 これは、老婆が草庵を建ててまで面倒を見てきた修行僧に、若い娘を送り込む。ところが、僧は『枯木寒巌に倚って、三冬暖気なし』、つまり『自分は女になど興味がなく、冬の巌に立つ枯れ木のように少しも心が動じない』と言って娘を拒否してしまう。それを聞いた老婆は怒って僧を追い出し、草庵まで焼き払ってしまったという話です。
 要するに、女人を抱けば破戒してしまう。しかし、枯れ木のように水の通わぬひとりよがりの修行は真の悟りではない。娑婆世間におりて、人の心に寄り添い、ともに悩み、苦しみ、悲しまなければ、生きとし生けるものを救う僧のつとめは果たせないということです。
 永平寺時代、弘文さんに『自分はこの問題が頭から離れない』と話したところ、彼が『これは大変な問題だね』と応えたのを思い出します」

宝慶寺/住職.jpg

 座敷には、私と田中師、そして先ほどお茶をたててくれた侍者の三人。侍者である僧侶は、田中師の後ろに控えたまま、何度もうなずきながら黙って話を聞いている。
「少し話がそれるようですが、弘文さんの生家、定光寺(じょうこう)はなかなか興味深い人物を輩出していると、總持寺(そうじ)の故大道晃仙貫首から聞いたことがあります。
 昔、定光寺の修行僧が女で失敗して北海道の寺に流れたという。彼はその寺でも同じ過ちで追い出されて、流れ流れて、遂には釧路に辿り着いた。釧路にはやん衆相手の女郎屋があり、行き場のなくなった彼はその辺りをウロウロしていた。そのうちに、やん衆や女郎に求められて経や法話を施すと、それが釧路定光寺に発展、最終的には二千軒以上の専門道場になったのです。
『歌舞伎の十八番に禅のすべてが書いてある』とは、ある老師がおっしゃった言葉。『人間は何が悪かはわかっている。わかっているが、そこら辺でみんな悩んでいる。そういうどうにもできないものをやっていくのが禅なんだ』と。
 人の三大煩悩は、食、寝、性。これらにブレーキをかけるのが行(ぎょう)で、確かに弘文さんは行をしっかりと見つめていません。ですが、反対に本能に正直に生き、本質をつかもうとしたとも言えるのではないでしょうか、よく言えばーー』
願って地獄に堕ちる

 田中師は、「よく言えば」という言葉を少し強調して話を終えると、すーっと私の目を見つめた。その魂を射抜くような重厚な眼差しに戸惑った私は、気がつくと京都で耳にした「蔵の一件」や「結婚は修行」をはじめとする、弘文の逸話を惚けたように話していた。
 すると、
「ああ」
 師は低く唸って、こう言葉を繋いだ。
「ああ、(彼女たちと)ともに地獄に堕ちたんだね……弘文さんは、願って地獄に堕ちたんだ……。
 私は今あなたから、弘文さんが『結婚は修行』だと言っていたと聞いて、とてもうれしい気持ちですよ。ある老師が、門前の老婆に『地獄に堕ちたらどうしましょう?』と訊かれた時、『願って地獄に堕ちろ。わしも堕ちていく』と答えたといいます。
 永平寺時代には独身を貫くと誓っていた弘文さんが、渡米後、極端な生き方をした。弘文さんはきっと、ある段階であらゆる物事から弾けたのでしょう。
 アメリカの禅文化は、道元禅師が説いたように戒律をバシッと守るのではなく、明治の改革で妻帯が許されて以降の、ある程度解放された形の禅を礎にしています。
 これに対して、そんないい加減な教えはいけないという立場もあれば、開かれた思想として肯定し、世間の泥にまみれた暮らしの中で、人々と“苦しみをともに苦しむ”という方法もある。よく解釈すれば、弘文さんは後者を生きたのでしょう。そして、ジョブズという人は、それを見抜いていた」




「弘文さんが日本にとどまっていたら、独身を通していたように私は思います。新潟や永平寺にいたら、生真面目でかたいお坊さんで終わっていたでしょう。しかし、彼はアメリカに行き、日本の縛りから解放されて、弾けた。弾けて、そして花を咲かせた。彼が本来的に持っていた奔放さが、アメリカという自由な土壌で開花したのです。
 弘文さん自身の生活はどうあれ、彼はジョブズを救い、ジョブズにある方向性を示しました。若い頃、弟子になることを希望したジョブズに対し、禅僧になるより起業家として生きる方が、自身の命を活かせると指導したのは弘文さんです。そのことにより、人類には大きな足跡が残りました。これは認めざるをえない偉大なことです。
 ケ小平は、『毛沢東の六割は素晴らしいが、後の四割は文革に代表されるようにひどかった。だが、この世に完璧はありえない。だから結局、毛沢東は凄いんだ』と言いましたが、弘文さんに関しても、同じことが言えるのではないでしょうか」

宝慶寺

誓願に生きた一生

 田中師の言葉、ひと言ひと言が私の下腹にどすんと響いた。やはり、乙川弘文は「泥池に咲く蓮の花」だったのだ。ジョブズは、それを見抜いたからこそ、けっして少なくはないアメリカの禅僧の中から、弘文ひとりを師として仰いだのだ。
 書道、弓、京都、西洋哲学と禅の比較論……弘文が、ジョブズが深く興味を抱いた事柄に精通していたのは事実である。
 しかし、誕生と同時に両親から引き離されるという、いわば人間社会の泥池に生まれ、後に認めたとはいえ自らも子どもを捨てて、厳しい国際ビジネス社会を生き抜いたジョブズにとって、澄んだ水に咲く花では共鳴しようがなかったのにちがいないーー。
 アメリカの老舗出版社、フォーブスが刊行したジョブズと弘文を主人公にしたコミックブック、『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』によって弘文に出逢ってからおよそ2年。残念ながら、これまでの取材では、弘文がジョブズに指南した具体的な内容を豊富に入手するにはいたらなかった。なんといっても、気難しいこととプライベートを守ることで知られるジョブズが、弘文に自身の結婚式を司ることさえ頼んだ仲である。二人の間でさまざまな問答が交わされたはずなのだ。
 だが、問答内容を容易に入手できないという事実が、私をさらに弘文に惹きつける。それこそ、弘文が師の立場をわきまえ、ジョブズとの関係を口外しなかった証だからだ。
 永平寺を下山した弘文は、アメリカに渡り、カリフォルニア州の「タサハラ禅マウンテンセンター」を皮切りに、カリフォルニア各地、ニューメキシコ州、コロラド州、そしてヨーロッパを転々として布教活動を続けた。その後半生は、「宿無し興道」「移動式僧堂」と呼ばれて、自らも「いかんならんところへゆくばかり」(『禅に生きる』酒井得元著、誠信書房)と語った師の澤木興道を彷彿させる足跡であった。
 この連載は今回でひとまず終了するけれど、今後も私は、「宿無し弘文」が世界に散らした種子を求めて取材を続けていくつもりでいる。
 宝慶寺を後にする私を見送ってくれたのは、田中住職の侍者を務める僧侶だった。
「失礼ながら、末席でお話をうかがわせていただきましたが、弘文老師は本当のお坊さんだったんですね」
 清滝川沿いの並木道で、彼は静かに言った。
「お坊さんには、結局、誓願(せいがん)しかありませんから。仏の教えを誓い、衆生(しゅじょう)を救ってくれるよう願う、これしかないですから。弘文老師は誓願に生きられたのですね」(完)

 

 

 






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