「Kotoba」(集英社)2013年夏号より転載/文・柳田由紀子

photo by Nicolas Schossleitner
若い頃から精神世界にのめり込んだジョブズが、生涯でもっとも長い間向き合ったのが「禅」だった。とりわけ、日本人の禅僧、乙川(旧姓・知野)弘文(こうぶん)との30年におよぶ交流がジョブズに与えた影響は絶大だった。その一端は、コミック『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』にも描かれている。知られざる禅僧の人物像に迫る。
前号で私は、弘文が「本物」であると確信するにいたったと書いた。ただし、私にはいまだにひとつだけ引っかかっていることがある。それは、彼が三五年間のアメリカ生活で、少なくとも二度の結婚と一度の同棲をしているということ。腹違いの子どもたちも全部で五人である。これって、僧侶としていかがなものなんだろう。
「セリバシィ(独身主義)は難しい問題です」
そう解説するのは、弘文の京都大学大学院時代に、院生として親しかったインド・中国仏教思想史家の荒牧典俊・京大名誉教授(七六歳)だ。
「釈迦は家族を捨てて出家した。以来、仏教は独身主義を貴重な伝統として厳しく守り続けました。独身でなければ真理を追究できないという考え方ですね。
おそらくその影響を受けたヨーロッパでも、カトリックの修道院運動が同じ思想の上に立っていました。それが、中性という時代の歴史的必然だったのかもしれません。
ところが近世になると、一夫一妻のプロテスタント的立場が優勢で、曹洞禅もカトリックも妻帯、在家主義が一般的になっています。
知野さんの場合は、それをさらに徹底したわけですから積極的に肯定はできません。しかし、禅にはお釈迦様のように禁欲的に生きる道とは別に、『自然のままに生きる』という在り方もある。また、『泥池に咲く蓮』といって、泥の真ん中から生えてきてこそ美しく白い蓮の花は咲く、つまり真実の生き方が実現されるという大乗仏教思想もある。
知野さんは、男女が存在するこの社会でごく自然に生きたのでしょう。彼を、ごちゃまぜで節操のない人と切り捨ててしまえば一応論理は通ります。ですが、男女関係は一休さんも抱えていた問題であり、なかなかの難題なのですよ」
ドンファン?
弘文は、果たして「泥池に咲く蓮の花」だったのだろうか?
ところで、結婚、離婚、同棲、再婚というと、どうしてもプレイボーイのイメージが浮かぶが、そのあたりはどうだったのだろう?
「弘文は、決してドンファンではなかった」
こう断言するのは、カリフォルニアバークレー禅堂のメル・ワイツマン住職(八四歳)だ。
「彼は、常にステディで長続きする関係を望んでいました。でも、社会人として欠落した部分が多く、別離を繰り返さざるをえなかったのです」
同じカリフォルニア州、マウンテンヴュー観音堂のレス・ケイ住職(七六歳)も同意見である。
「いわゆる女たらしとはほど遠い人でしたよ。ただ弘文は、西欧女性にとってエキゾチックな存在でとにかくもてた。女性たちから迫られて、惹きつけられてしまったんじゃないかな。なにせ、彼の心は少年そのものでしたから」
「おとなしいし、小柄で美男子でもないのに弘ちゃんはもてました。京都から女が追いかけて来たこともありましたよ。弘ちゃんは、言い寄られたら断れなかったんじゃないかしら。ただ、それまでは規則正しかった弘ちゃんなのに、女ができてからは、ふらっと出てふらっと帰る、そんな側面が見え始めたようには思います」
こう語ったのは、弘文の養母、知野芳枝(八七歳)さんだった。
永平寺に向かう
一九六四年春、京都大学大学院文学研究科仏教学の修士課程を修了した弘文は、学舎を旅立ち、翌冬、曹洞宗の大本山永平寺に上山(じょうざん)した。その心情を、荒牧氏は以下のように推察する。
「修士論文で『転依』(てんね)というテーマと葛藤した彼は、頭ではなく身体で仏道を実証するために永平寺へと向かったのでしょう。坐禅を中心に据えた曹洞宗の修行生活は、その点、実によく工夫されているのです」
弘文本人も後年、アメリカ人門徒たちに同じ考えを述べている。
「京大時代、私は本を貪り読んだけれど、頭でっかちになって混乱し苦しみました。ある朝、物干しに出ていつものようにあれこれ悩んでいた時、『寺に入り、坐禅に徹し、一から修行しよう』と思い立ったんです。
その瞬間、『上山』という言葉がきらりと光彩を放ちました。私は、それ以前に永平寺を訪ねています。『雁行』(がんこう)といって、修行僧が整然と列をなして歩いている姿に感銘を受けました。自分もあのように、道元禅師が開山した永平寺で、道元禅師の魂を感じながら朝から晩まで修行したいと渇望したのです」

こうして、一九六五年二月二日、二七歳の誕生日を迎えた翌日、網代笠、無地の着物に絡子(らくす)、脚絆(きゃはん)に草鞋履きと、雲水の旅装束に身をかためた弘文は、雪国、福井県の永平寺に辿り着く。
「雪が吹き荒れていました。剃ったばかりの頭がとても寒かったなぁ」
永平寺は、鎌倉時代初期の一二四四年に、日本曹洞宗の開祖、道元(一二○○年〜一二五三年)によって開かれた坐禅修行道場である。京都の貴族の家に生まれた道元は、幼くして両親を亡くし、世の無常を感じて一四歳で比叡山に出家。二四歳で正師(しょうし)を求めて中国の宋に渡り、浙江省(せっこう)天童山景徳寺の如浄禅師(にょじょう)のもとで修行した。
一二二八年に帰国した後は、釈迦にならい、ただひたすら坐禅する只管打坐(しかんたざ)を拠り所に、専一に修行を続ける道を日本に伝えた。道元の説く道とは、
「人間の心には生まれながらに仏性(ぶっしょう)が備わっている。坐禅を実践し、自分の心の中の仏とひとつになる(即心是仏)」
ということだ。
道元は初め、宇治の興聖寺(こうしょう)に道場を作ったが、仏教界から迫害を受けため、越後(現在の福井県)に移住、そこで開いたのが永平寺(開山時の名称は大仏寺)だった。
曹洞宗は今、全国に一万五千カ寺を持つが、永平寺は神奈川の総持寺と並ぶ曹洞宗の大本山である。サンフランシスコ禅センターによれば、スティーブ・ジョブズは亡くなる直前に、「永平寺に行きたい」と問い合わせてきたという。結局は病状がそれを許さなかったが、ジョブズは生涯の最後に、この寺で坐禅に徹したいと願ったのだろうか。
涙が止まらなかった独参(どくさん)
シャリン、シャリン、シャリンーー三時二○分、永平寺の朝は、雲水が境内を駆け抜ける緊迫した足音と、心身を洗うがごとき清浄な振鈴の音で明ける。永平寺では、読経や坐禅はもちろんのこと、洗面、食事、入浴、作務、就寝など、行往座臥(ぎょうじゅうざが)のすべてに作法が定められており、それらの作法を厳格に守り実践することがすわなち修行と考える。
たとえば、トイレ(東司/とうす)の使用に際してさえ、「まず東司へ行くには、必ず手巾(しゅきん)を持つ。手巾は二重にして、左肘の衣の上に掛けるがよい。そして東司に着くと、手巾を竿に掛けよ。その掛け方は……」(『正法眼蔵/洗浄の巻』道元著)といった具合だ。
さらに、東司に入った時には、正面の烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)に向かって合掌低頭し、「左右便利、当願衆生、けん除穢汚、無婬怒癡」(とうがんしゅじょう/けんじょえお/むいんぬち)(大小便を行うにあたって、すべての生あるもののために願わん。汚れを除き去り、貪り、怒り、愚かなる三毒を滅却せしまんことを)と黙唱し、用をすませた後には、「以水滌穢、当願衆生、具足浄忍、畢竟無垢」(いすいできえ/ぐそくじょうにん/ひっきょうむく)(水で汚れを流すにあたって、すべての生あるもののために願わん。忍耐の身心をもち、どこまでも清浄ならんことを)とやはり黙唄し、三度指を弾かせる。
これでは、普通の人は用をすませた気にもならないだろうが、二十四時間、生活の隅々にまで定められた作法にしたがう苦しさは雲水とて同じなようで、覚悟を決めて上山したものの中途で挫折する者も少なくないという。

現在永平寺では、一般人向けに一泊二日の「参籠修行」と、三泊四日の「参禅修行」を行っている。そこで過日、私は、「スケジュールが緩め」と説明された参籠修行に参加した。
「緩い」とはいえ、一日目が午後二時までに上山、そして入浴、薬石(夕食)、坐禅、法話、映画。二日目は、三時二十分の起床洗面から始まり、坐禅、朝課(朝の読経)、諸堂拝観、小食(朝食))と、盛りだくさんのプログラムが効率的に組み込まれていたので、あっという間に時が流れた。
三方を山に囲まれ、斜面に這うように大小七○余の建物が並ぶ永平寺は、まるで迷路のように長い階段で繋がっている。一泊二日の参籠では、どこに何があるかすら把握できないままに終わったが、それでも、まだ空が暗いうちから「法堂(はっとう)」で行われた朝課の迫力ある荘厳な響きと、法堂の背後がほんのりと白ずんでいった深山幽谷の情景が忘れられない。かつては、弘文が毎朝眺めた景色である。
その弘文は、入山後すぐに先輩僧たちから警冊(きょうさく/坐禅時に警覚策励するための棒)の洗礼を受けた。
「警冊で激しく打たれた時、自分の中のエゴがいきなり溶け出し、四方の壁に飛び散った! 頭でっかちだった私の石頭から、脳みそが飛び出して粉々に砕かれた。永平寺では、自分自身が浄化されるまで叩かれ続けました」
また、初めての独参(どくさん/単独で師に面接すること)の思い出は、
「私の中で何かが崩れ落ちて、滝のように涙が流れました。涙が止まらず、私は泣き続けた。老師は何も言わず、ただ私に読経をよんでくれました」
と語っている。
「永平寺に上山するまで、私は自分を上等な人間だと過信していたんです。でも、あそこでは、自らの愚かさを思い知らされた。二年半過ごした永平寺を去る時、私が感じたのは、すべては可能だということです。すべては成就する、だが時間がかかるのだと」

孤高の人
「良い写真ですねえ。自然体で欲のない、いかにも弘文さんらしい写真ですね」
静岡県藤枝市の正泉寺に吉岡博道師を訪ねると、師は、私が差し出した慈光寺(カリフォルニア州)山中に佇む弘文晩年の写真(タイトル下の写真)を前に、うんうんと柔和な表情でうなずいた。
吉岡師は、一九四二年、正泉寺生まれ。駒沢大学仏教学部卒業後の六五年三月に永平寺に上山し、四つ年上の弘文と出逢った。二人は雲水同期生である。
「弘文さんは気合いが入っていたのでしょう、あの年上山組の中でも二番乗りでした。後から入った私は、弘文さんから親切に公務を教えてもらったものです。弘文さんはどっしりと構え、落ち着いた口調で、古参和尚の風格がありましたね。
私たちは、僧堂単でともに起臥した仲ですが、僧堂単はいわゆる『起きて半畳、寝て一畳』の窮屈な場。だから人柄が丸見えになる。弘文さんは孤高の人、雲の上の存在でした。
なんてったって断トツの学歴でしょう。当時の永平寺では中卒、高卒が普通で、大卒といってもほとんどが駒沢大です。そこに京大、しかも大学院卒で、その上、読む本ときたら西田幾太郎の哲学書。そんなの、読んでいる人などいやしませんよ(笑)。寡黙な人でしたけれど、話す時は京大学派そのもので、理論的に相手に諄諄と説く感じでした。ただし、高慢ちきだったり嫌みだったりはしないんです。飾り気のない真っすぐな人でしたね」

修行僧には、台所を受け持つ典座、客の接待をする知客、風呂を沸かす浴司、便所掃除をする浄頭といった公務がさまざまにある。だが、「弘文さんは、最初からスマートな役ばかりだった」と吉岡師は振り返る。
「いやあ、永平寺だって経歴を見ているんですよ。我々は二等兵なのに、弘文さんだけいきなり軍曹扱い。公務は広報誌編集室や書記他で、肉体労働はなかったと思います」
実は、二月に上山した弘文は、その後胃潰瘍を患い、五月に一時下山。療養を経て再上山したのは九月で、その翌月に『眼蔵会(げんぞうえ)』(道元の『正法眼蔵』を学ぶ集い)が開かれた。
「眼蔵会で弘文さんは、講師を務めた山田霊林老師(後の第七五世永平寺貫首)の侍者(じしゃ)に大抜擢されたんです。私はうらやましくてね。だって、こっちは公務で眼蔵会への出席さえままままならないっていうのに、あの人はいつも講師のそばにいられるわけですから。
また、弘文さんは書も達者で特賞をもらっていましたし、お経をよむのも天下一品。越後のお坊さんは一般に節回しがうまいんですが、めったに褒めない指導僧が『わしよりうまい!』と唸るほどでした。宮崎奕保老師(ルビ/えきほ。後の永平寺第七八貫首)も、弘文さんをお師家(しけ/指導者)に育てるんだと大変可愛がっていらっしゃいましたね」
しかし、優等生だった弘文にも不得手があった。鳴り物である。
「永平寺の一日は、鈴や鐘、太鼓など鳴り物の合図で動きます。時間はもとより、鳴らす回数や間隔が厳密に決められているんです。弘文さんは、それをよく間違えて怒られていました。朝の振鈴もコースを間違って走っちゃったりして(笑)。ああいうのを間違えられると、寺全体の調子が狂っちゃうんですけれどね。
あの人には、浮世離れしたところがありましたから。そういえば、後輩の面倒を見るとか、そういう社会性もあまりなかったかな」

吉岡師は、上山から二年後の六七年五月に永平寺を送行(そうあん)、実家の正泉寺に戻った。一方、弘文はその翌月、サンフランシスコの鈴木俊隆師に呼ばれて曹洞宗の国際布教師として渡米した。渡米後は、「手紙のやり取りだけで再会することはなかった」という吉岡師に、私は弘文の女性関係に関する感想を訊いた。
「え? 実質的に三回も結婚したんですか? それは知らなかったなあ……。
それはともかく、弘文さんの慈光寺は、曹洞宗の認可を受けていない単立寺院だって聞きましたけれど、これ、私、弘文さんらしくていいなって思うんです。アメリカの風塵に身を晒して禅そのものを見つめたかったのでしょう。亡くなり方だって、お釈迦様の物語に出てくるような、勇気のある仏の道そのものじゃないですか。第一、耕泰寺(ルビ/こうたい)の養父母を捨てて、妻を三度も変えて……普通の坊さんじゃできないことですよ。
弘文さんは、大人物なのに名誉から離れてひたすらアメリカで禅に生きた。スティーブ・ジョブズのことだって、誰にも自慢しない。やはりこれは、私、すごいことだと思うんです。
道元禅師の言葉に『風性常住』(ふうしょうじょうじゅう)というのがありましてね。これは、風は充満しているが、行動しないと吹かない。真実は学問ではなく、生き方にあるっていう意味なんです。『風性常住、これいかん』って訊いたら、弘文さんなら、なんて答えるかな?」
吉岡師は、弘文は異性と暮らすことを繰り返す中で、風を起こしたのだと言いたかったのだろうか。
修行のつもりの結婚
実は、これまでに私は、弘文の三人の伴侶(アメリカ人二人、ドイツ人ひとり)のうち二人に会っている。ともに魅力的な人たちだったけれど、反面かなり手強い性格という印象も受けた。そんな感想を三人全員と面識のある京都の御弓師(おんゆみし)、二十一代柴田勘十郎氏(六○歳)に話したところ、
「そうなんや。弘文先生も、ほんま難儀な女ばかりを選んだもんや」
氏は、そう言って苦笑いした。
「誰とは言いませんが、先生が結婚していた時、我々夫婦してアメリカに先生を訪ねたことがあるんです。ところが日中にご自宅にうかがうと、奥さんが出てきて『弘文は寝ているから帰れ』と追い返された。相当激しい性格の人だったようで、先生自身も『禅修行のつもりで結婚した』と言っていましたね」
奥さんに追い出された体験は、スティーブ・ジョブズも本人が唯一公認した伝記『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン著、井口耕二訳、講談社)の中で言及している。もっとも彼の場合は、夜中まで粘ったからという理由もあったようだが。
いま少し、柴田氏の話を聞こう。
「これも誰とは言いませんが、先生が女性を連れて京都に来たことがあります。実家に紹介したいけれど、初婚ではないし、さすがに気がひけたんでしょうね。『預かってくれ』と、彼女を我が家に置いてひとまず先生だけ新潟に行ったんですわ。
ところが、ひとり残された彼女が、蔵の中に閉じこもって三日三晩出て来ない。何を言っても頑として動かない。初めての日本で、知らない家にいる彼女の気持ちもわからないではないのですが、それにしても行動が極端です。私らも困り果ててしまってね。
数日後に先生が戻った時に事情を伝えると、両手を広げて『おー!』と言ったきり硬直。あの人が困った時にする仕草ですわ(笑)」
結局、弘文の帰還を知った彼女は無事に蔵から出て、その後、二人は新潟に赴き弘文の実母と面会したという。
「あの女性は、その後もトラブルメーカーだった。ま、先生にとって、結婚や同棲はほんま修行だったのかもしれませんな」
泥池に咲く蓮の花、風性常住、そして、結婚は修行……三人が語ったこれらの言葉が、私の頭の中でぐるぐると回り出す。