「Kotoba」(集英社)2013年春号より転載/文・柳田由紀子
photo by Nicolas Schossleitner
若い頃から精神世界にのめり込んだジョブズが、生涯でもっとも長い間向き合ったのが「禅」だった。とりわけ、日本人の禅僧、乙川(旧姓・知野)弘文(こうぶん)との30年におよぶ交流がジョブズに与えた影響は絶大だった。その一端は、コミック『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』にも描かれている。知られざる禅僧の人物像に迫る。
弘文の死後、乙川家には京都大学大学院時代に書かれた日記や学習帳が残された。そのうちの一冊、『鳳来孫日録 京洛』と題された弘文の日記は、一九六0年九月一三日に始まる。
「今日は故衛藤即応(えとうそくおう)師の月忌である。来月のこの日で御遷化(ごせんげ)より満二ヶ年。即ち三回忌である。御遷化当時を顧れば、あの霧のたちこめた朝の空気が実感となって迫って来る。御通夜の晩の事、お邸からの帰途、星空に向って声をのんで涙を流した事」
歳月で表紙が紙焼けした大学ノートの最初のページに綴られているのは、故衛藤即応駒澤大学総長への想い。五六年春、地元の新潟県立加茂高校を卒業した弘文は、駒澤大学仏教学部に入学。「ディグナーガ」(五〜六世紀頃のインドの仏教思想家、論理学者)の研究に勤しんだ。そして、この日記が始まる五カ月前の六0年四月、京都大学大学院文学研究科に進む。
京都大学での失望と収穫
進学理由については生前、「釈迦の人生を追究したかった。釈迦の悟りとはなんだったのか? 何を悟ったのか? 史実に照らして研究したかったので、図書館が充実した京大を選んだ」と語っているが、衛藤即応も駒澤大(当時曹洞宗大)から京大に進んだ人物だから、自身の境遇と重なるものを感じていたのかもしれない。
この日の日記は、こんな文章で締めくくられている。
「私はここに来て、一つの失望と、新たなる視野を開かせられた。それは、仏教を文字で理解する学問の世界に、一歩踏み込んだ自分を反省しての失望であり、新たな視野とは正にそのことのゆえに私自身の仏道修行(参学)の源を発見し得たことである。ここへ来ての一大収穫は、とりも直さずその参学眼の開けたことにある。日々に新たな師の言、経典の御言葉、それだけで私の心は悦びである」
いささか回りくどい表現ながら、京大という新天地で学ぶ喜びと、若者らしい生真面目さに満ちた文章だ。
日記全体を通じて頻繁に登場する記述が、「長尾先生に出る」「西谷先生に出る」「道元禅師荼毘所(だびしょ)へ詣ず」。「長尾先生」とはインド・チベット仏教の文献学的、哲学的研究の大家であり、弘文の指導教授だった長尾雅人(がじん)、「西谷先生」とは、西田幾多郎(きたろう)門下で、ハイデガーのもとでも勉強した日本を代表する宗教哲学者の西谷啓治。また、「出る」は「授業出席」、「道元禅師荼毘所」は、曹洞宗の開祖、道元が一二五三年に火葬された京都東山区鷲尾町の地を指す。
この他、「梵語で夜更かし」も散見されるし、「私は自ら進んでこの仏門に入り、今日の仏道を私の生命の道にすることを決しました」ともあり、まっすぐに学問と仏道に向き合う人物像が浮かび上がってくる。
弘文は、京大大学院時代の六0年十月に新潟県耕泰寺(こうたいじ)、知野孝英老師の養子となり、翌年、知野師より嗣法(しほう/弟子が師の法統を受け継ぐこと)を受けたが、以下はその直前の日記。
「(二月)四日午前零時半、吾が嗣法の事思い、敬兄(注・兄の乙川敬文)から借用した『仏祖正伝菩薩戒作法・伝法室内式・教授式度』を拝読。身の引きしまる思いすなり。
三日昼 其中堂(きちゅうどう)より買った『五家参詳要路門 全』を読む。『眼蔵』(注・道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』)読了せずば帰山する莫(なか)れ」
そして、嗣法後には、
「自分がダイヤモンドだという意識はすてましょう。嗣法をして真の仏者としての自覚を得たのだから、すでにその時に身心共に生れ変わっていねばならなかったのでした。
何にでも化けることの出来る、水か空気のような人間、そんなものになります。嵐とも海ともなって、善人も悪人も共に生かし殺すことの出来る人間になります。……
さずかった能力には限りがあるかもしれないが、足りないところは生きながらつちかっておぎなって然るべきであります」
と、決意を新たにする。
十六歳の霊的体験
日記からは他に、地の利を活かして古刹や庭、展覧会に旺盛に足を運んだこと、青年らしく恋に悩んだこと、「火鉢を入れる」などの記述に見られる時代性、そんな時代にあっても、「(母より)チーズとココア、チョコレート、小包にて送られて来る」「方丈(注・知野師)より素晴しい金時計を贈らる」など、それなりに恵まれた学生生活を送っていた様子がうかがわれる。
中で異彩を放つのが、九死一生した体験の回想であろう。
「若い時、あれはちょうど十六の頃のことでありますか。谷の急流を走って渡り、高い滝壺へと真さかしまにとびおりたことがありました。死ぬかと思いました。死にながら谷間に咲いた百合の美しさを見、暮れていく谷間の静けさを思い、山寺の鐘の音を聞きました。落ち乍(ながら)私は死なない、生れ変っていくとしかと思われ、その瞬間から、無常の言葉の意味を知りました」
弘文は、本当にこんな霊的体験をしたのだろうか。いずれにしても、若人の肉体に神々しい光が満ちる姿が目に映るような美しい表現である。
だが日が経つにつれ、日記は内面の叫びを露呈するようになっていく。
「真昼の空に死神を視る。忘れかけていたそれの出現が、またしても私を地に引摺り落としてしまった。恐ろしい人間関係の破綻の前触れが、たえず私を萎縮させる。また、身近な人々を不本意に傷つけなければならぬのであろうか。恐ろしい事である」
「当地へ来て確かに私は堕落した。堕落という意味には、生活の『しまり』が欠けたことが第一。眼蔵を恐ろしい書物、いたいむちの書物と受取るようになったことが第二。第三に仏教を仏教と思わなくなったこと。……私は堕落した!」
「〔仏陀〕
こんなに身近に感じているのに。
声も姿もお見せ下さらないのは。
私をいとわしく思われるからですか。
あらゆる罪を犯し、血みどろになった私のそばに。
どうして、あなたはおいでになるのです」
私は弘文の日記を、生家、新潟県定光寺(じょうこうじ)の二階の座敷で紐解いた。弘文ら家族は、かつてこの階下に住んでいたという。弘文の痛々しくも真摯な魂に引きずり込まれ、日記の世界に没入する私を、ポチャンポチャン、時折、池の鯉が跳ねる音が現実に戻した。
正直なところ、弘文はずっと私にとって不可思議な人物だった。スティーブ・ジョブズの逝去後、俄に注目されたこの人物が本物なのか、あるいは、ただジョブズに気に入られただけのことなのか? 結論が出ないままに取材を進めてきた。しかし、日記を読み終えた時、私ははっきりとある確信をもったーーこの人はただの風来坊じゃない。青年期のこの叫び、この苦悩が足腰となって、やがてアメリカで花を咲かせたのだ、と。
西洋哲学と禅修行
弘文が進学したのは、京都大学大学院文学研究科の仏教学。そこでは、インドやチベットの仏教思想史を文献学的に研究する。また、原典の緻密な読解を基礎に置くため、サンスクリット語、チベット語、さらに漢文の高度な語学力が求められる。実際、弘文のノートにも、実に几帳面な文字で語学習得の足跡が残されている。
そんな弘文が、四年間かけて完成させた修士論文のタイトルは「āśraya-parāvṛtti」(アーシュラヤ・パラーブリッティ)、日本語に訳せば「転依」(てんね)。ところが、四百字詰め原稿用紙八十枚におよぶこの論文、極めて専門的で難解、素人の私にはまったく歯が立たない。
そこで私は、京都大学名誉教授で、インド・中国仏教思想史家の荒牧典俊氏(七六歳)を訪ねることにした。荒牧氏は、六四年、京都大学大学院文学研究科で博士課程を単位取得退学。弘文とは院生同士、親しい間柄だった人である。
「知野さんは黙して語らず、友だちとワイワイ騒ぐような学生ではまったくありませんでした。ですから、ちょっと正体のわからないところもありました。しかし、黙して語らずは曹洞本来の在り方です。
彼は京大近く、吉田神社の辺りに下宿していました。立派な社家(しゃけ)でね。私などは、『さすがお寺さんの子、良いところに住んでいるな』と思ったものです。一度そこに呼ばれて、長時間禅について語り合ったことがあります。
知野さんは、例によって多くを語らなかったけれど、西洋哲学と釈迦の修行、この両者を突き詰めて考えているといった印象を受けました。彼は、学者志向ではなく元々が僧侶。だけど、外へ外へというのかな、日本の寺の教えだけでなく、世界の哲学と関連付けながら物事を捉えようとしていた。その点、あの頃の京大は理想的な学舎(まなびや)だったんです」
氏によれば、当時の京都大学文学部の哲学科には西洋哲学研究とともに、「禅修行する伝統」が脈々と流れていたという。哲学者として禅を深く理解した西田幾多郎の愛弟子や孫弟子たちが、教授陣に在籍していたのだ。たとえば、弘文の日記にも登場する西谷啓治は、戦前から臨済宗相国寺山内の「智勝会」で定期的に坐禅を組んでいた。その智勝会の伝統が続いて、「私を含めた学生たちも盛んに参禅していた」と荒牧氏は語る。
氏は、「智勝会で知野さんを見た記憶はない」と振り返ったが、同じ頃、弘文もある禅僧のもとで坐禅修行に励んでいた。「宿無し興道」「移動式僧堂」と呼ばれた曹洞宗の澤木興道老師(一八八0〜一九六五)である。幼くして両親を亡くした澤木は、色街で育てられ最底辺の暮らしを送った後、十七歳で出家。只管打坐(ただひたすら坐禅する)に徹し、生涯独身で自分の寺を持たず、坐禅指導に招かれれば日本全国どこへでも行くというスタイルを貫いた。ただし、京都洛北の安泰寺(後に兵庫県へ移転)は名目上の住職で、毎月坐禅会「紫竹林参禅道場」を開いていた。
弘文の日記は綴る。
「京都に来てより、毎月、安泰寺にも上がった。そうせずにおれぬ自身に、或は、安心を感じ、時に己の小ささを嘆いた」
安泰寺にも多くの京大生が通ったが、弘文もそのひとりだった。弘文は澤木について「心底尊敬できる方」と語っているが、晩年に、自身が開山したカリフォルニア州ロスガトスの慈光寺、ニューメキシコ州の鳳光寺、コロラド州のナーローパ大学、スイスの寂光寺他を転々とした生き方に、澤木の影響を見ることができるだろう。
「そういえば、私が九○年代に慈光寺を訪ねた時も、彼はいなかったなぁ」
荒牧氏が小さくうなずいた。
転依(てんね)
さて、弘文の修士論文タイトルの「転依」とは、そもそもどんな意味なのだろう?
「仏教用語で人格の根本転回。つまり修行によって悟りを開き、人格がひっくり返り、それまで気づかなかった新しいモノの見方ができるようになることを意味します。
人は、生まれ育って一人前になって、その時にどうやって自分の人生を見つけるか? 転依ができれば、その人らしく生きられるのですが、並大抵でできるものではありません。では、どんな仏教修行をすれば転依にいたれるのか?
知野さんの論文は、それを西洋哲学との関わりの中で考察しているわけです。転依は、仏教哲学の根本思想。欧米に仏教を伝える上でのキータームでもあります。その意味で、彼の目のつけどころは大変核心を突いているといえます。
しかし、では、考察の果てに彼が本当に答えを見出したかとなると、さて……。第一、この命題は大学院の数年間で答えが出るようなものではありません。論文の評価としては、本人の努力や葛藤は認めるといったところでしょうか。とはいえ、ハッタリや見栄が一切ない良心的な内容で、知野さんらしいと思いましたよ」
荒牧氏の話を聞きながら、私は膝を打つ思いだった。というのは、なぜ弘文が、アメリカであれほど多くの信奉者を得たかという疑問にひとつの答えを見たように感じたからだ。いかに高僧といえども、日本の禅文化の文脈だけで禅を説いたのではアメリカ人には理解されまい。その点、京都大学で西洋哲学と禅や転依を考え抜いた弘文は、アメリカ人にも理解できる形で禅を伝える術を養っていたのではないか。
「こんなことがありましたよ。七0年代の初め、知野さんから、『コンピュータ関連のアメリカ人十数名が京都に行くから面倒をみてくれ』と頼まれたんです。あの中にスティーブ・ジョブズがいたのかどうかはわかりませんが。私は、ジョブズは、ある種の転依を体験したのではと思うのですよ。禅修行を通じてではないかもしれませんし、インスピレーションといってもいいかもしません。ある時、従来と違うモノの見方をできるようになった瞬間があったのではないかと思います」
初めて矢を放つ
京都時代の弘文がいまひとつ学んだのが弓道だった。実は、ジョブズの愛読書も『弓と禅』だったといわれる。同書は、一九二四年に東北大学に赴任したドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲル(一八八四〜一九五五年)が、弓道修行した日々を記録したもの。論理を基調とした西洋哲学と、身体を用い繰り返し習うことを重んじる日本的修行の対峙と昇華を語った古典である。
弘文本人は、弓道を始めた経緯についてこう語っている。
「来る日も来る日も研究に没頭した私は、疲れ果ててしまい、何かしなければと思い立ちました。そしてある朝、一睡もできず青白い顔をした私は、弓道場の門を叩いたのです。それから毎朝、片手に教科書、片手に弓矢を抱えて始発電車に乗り込みました。おかげで町内の清掃員と顔馴染みになったほどです。
床拭きに明け暮れた七カ月を経て、初めて矢を放った時の感動は忘れられません。何かが私の内部から剥がれ落ちて、違う人間になったように感じたのです」
弘文の師匠は、日置流尾州竹林派(へきりゅうびしゅうちくりんは)の御弓師(おんゆみし)、二十代柴田勘十郎(九一歳)。伊勢神宮の式年遷宮で毎回御神宝弓を制作するとともに、弓道を指導する旧家に生まれ育った二十代は、八0年にナーローパ大学に招聘されて渡米、現在もコロラド州ボルダーに居を構える。弘文が亡くなるまで深い親交を重ねた氏と、私が出逢ったのは、昨夏、慈光寺で開かれた弘文の十一回忌法要時だった。高齢のため本格的取材はかなわなかったが、氏が弘文の墓をじっと見つめて、「この世のことは夢幻」とつぶやいた姿が忘れられない。
その二十代に代わって、京都で後を継いだのが二十一代柴田勘十郎氏(六0歳)である。
「京弓を使った日置流尾州竹林派は、弓道界全体の中ではマイナーな古流です。規則に縛られず自然体で、十人十色、弓を引く個人を尊重する流派でもあります。その点、弘文先生の生き方と一緒ですわ。京弓は、見た目は華奢だけど使ってみると手強い。率直に言って上手くはなかったけれど、先生のはふわんとして素直な弓でした」
格子戸に石畳の土間玄関、座敷にずらりと雅な弓が立て掛けられた下京区の古民家で、二十一代は話を続けた。ところが十分ほど経った頃だろうか、突然、氏が声を荒げてこう言い放った。
「それにしてもどうかと思いますよ! 世界中に家族を引きずり回して、終いには外国でああいう形で死ぬなんて!!」
横にいた妻の博美さんが、「まあまあ」と夫を制す。
弘文と夫妻は、弘文の渡米後も太平洋を越えて訪ね合うなど、親戚のようなつきあいを続けた。だからこそ辛い評価も出るのだろうが、私にはその激しい物言いとは裏腹に、氏の弘文に対する愛情がしんしんと伝わってきた。
「要するに、私は悔しいんですわ。弘文先生ほど純粋な禅坊主はいませんよ。それがあんなに早う亡くなって……。
そら、あの人の私生活はめちゃめちゃ、天然ボケもいいところやった。たとえば時間にルーズっていったって、あの人の場合は時間単位じゃない、日にち単位やからね。スケールが違う(笑)。待てど暮らせど現れないでこっちが諦めた数日後に、仕事の手を休めてふと見上げると、すーっと立っているってな感じで。『先生、ひどいじゃないですか』って言うと、『ええ、遅れちゃいました』って(笑)。あの顔を見たらもう怒れへん。
凡人はこだわらないことにこだわるけれど、弘文先生にはこだわり自体がないんです。超人ですわ。あれほど、わざとらしさや白々しさのない人はいないんと違いますか。二歳の赤ん坊でも九十歳のおじいさんでも同じように接した。とにかく、何も言わず何もせずとも周囲に人が集まるんだから、凄い。他者を評価せず、あるがままを受け入れる器が先生にはあったんです」
「そやね、ほんま聞き上手やった。くだらない話でも、正面からちゃんと聞いてくれるやさしさのある先生やった」
博美さんがしみじみと言うと、
「そやから女にも苦労したんや」
二十一代が笑いながら言葉を返した。
「そうやった、そうやった。あの先生はおもしろいの、困った時は『おおー』って両手を広げて膠着状態、後は頭を抱えちゃうの(笑)」
双手を上げて固まる乙川弘文、これじゃあ、まるで岡本太郎だ! “太郎化”した弘文とその理由については次号でーー。