2014年06月05日

スティーブ・ジョブズが愛した禅僧、乙川弘文評伝C

弘文が生まれ育った新潟、定光寺へ
「Kotoba」(集英社)2012年冬号より転載/文・柳田由紀子

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photo by Nicolas Schossleitner

若い頃から精神世界にのめり込んだジョブズが、
生涯でもっとも長い間向き合ったのが「禅」だった。
とりわけ、日本人の禅僧、乙川(旧姓・知野)弘文(こうぶん)との
30年におよぶ交流がジョブズに与えた影響は絶大だった。
その一端は、コミック
『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』にも描かれている。
知られざる禅僧の人物像に迫る。


 新潟行き鈍行列車の車窓には、次々と稲田が映っては流れていった。東京から長岡まで新幹線で1時間半。長岡から信越本線の鈍行に乗り換えて新潟県の加茂駅へ。およそ30分で着いた加茂は眠ったような街だった。かつて賑やかだったという駅前は、典型的な地方のシャッター通りに変わっていた。10分ほど閑散とした商店街を歩いたところで、地元の人に目的地の方角を確認する。
「すぐ横の加茂川土手を猿毛岳に向かって進めば、5、6分で見えてきますよ。大きなお寺ですから。この辺では、いちばん檀家が多いんじゃないかしら」
 その人に教えられた通り加茂川沿いを歩いた私は、対岸に目的の寺を見つけて腰を抜かしそうになった。威風堂々とした山門、その奥に垣間見えるゆったりとした屋根瓦の本堂、鬱蒼と茂る樹木ーーまるで修学旅行で訪ねるような立派な寺ではないか。
 乙川弘文が生まれ育った寺、新潟県加茂市神明町(しんめい)の曹洞宗、定光寺(じょうこうじ)である。

寺に生まれ、僧の道を歩む

 定光寺の歴史は古く、一説には天仁年間(てんにん/1108〜1110年)に遡る。度々の出火で古資料はほとんど失われたが、文禄4年(1595年)の「上条村検地帳」(『加茂市史』資料編1所収)には、「常光寺」の名で記録されている。
 弘文の父、乙川文龍は定光寺の21代目住職。ただし、文龍以前の住職と弘文に血の繋がりはない。明治5年に、太政官布告で肉食妻帯が解禁されるまで、曹洞宗寺院に限らず、浄土真宗以外のすべての宗派において結婚は認められていなかったからだ。文龍は、先代文山の養子である。
 その文龍は3度妻を娶っている。最初の妻は若くして死去、2人目は第3子出産時に赤ん坊ともども死去。弘文の母、マサはその後、後妻に入った。
乙川弘文

 弘文が生まれたのは、第二次大戦が始まる約1年半前の1938年2月1日。
「叔父は、6人きょうだいの下から2番目の三男坊。祖父の文龍にとっては、56歳で授かった最後の男児でした。ですから、両親の愛情を一身に受けて育った。家族はみんな、『弘ちゃん』と呼んでいましたね」
 定光寺の山門をくぐると、現住職の乙川文英師(45歳)が迎えてくれた。弘文の4つ違いの兄、敬文(前住職)の長男、弘文の甥にあたる人物だ。長身で細身、剃髪にきりっと法衣まとった姿がとても折り目正しい。
 私は、文英師に案内されて定光寺の境内を見学した。1800坪もの敷地に、山門、本堂、開山堂、庭園、墓地ーー。特に、道元禅師、瑩山禅師の両祖が祀られ、檀家の位牌がずらっと並んだ開山堂(1879年〜)では、紺碧に塗られた天井の荘厳さと歴史が醸す重厚さに圧倒された。
乙川弘文

「昭和40年代に度重なる洪水があり加茂川の河川敷を拡張した際に、当寺も敷地をだいぶ削られました。叔父が生まれ育った頃はこんな感じだったはずです」
 本堂に飾られた日本画を文英師が指差す。今だって充分に立派なお寺だけれど、そこには絵巻物に出てくるような広大で美しい禅寺が描かれていた。
 弘文は生前、この寺で初めて父親から坐禅を教えられた時のことを、「今でも父の声がはっきりと聞こえるほどに憶えている」と語っている。
「3歳半の夏の宵でした。私はふたりの兄と一緒に、庭に面した長い廊下で夕涼みをしていました。その時、父が3人揃って坐禅をさせたんです。蓮の池から蛍が飛んでいたな。父は、私の姿勢を直してくれました」
乙川弘文

 こうして弘文は、物心ついた時には坐禅を組み、経を憶え、書に親しんだが、どこかで居心地の悪さも感じていたようだ。
「私は、漬物石でも載せられたように仏教漬けの幼年時代を過ごしました。『お寺の子なんだから、ちゃんとしないと』という周囲からの圧力も常に感じていました。自由なんかなかった。それで、よく野山に逃げ出しては日が暮れるまで過ごしたものです。自分の内部に溜まったどうしようもない混沌と折り合いをつけるために」
 このあたりの発言は、後年の奔放な生き方に通底するものを感じさせる。だが、渡米するまでの弘文は、「混沌」は「混沌」として内に秘めたまま、終戦直前に7歳で父親を癌で亡くした後も、僧への道をまっすぐに歩んでいく。
 13歳で得度、18歳で得度を曹洞宗に登録。同年上京し、「仏教の教えと禅の心」を建学理念とする駒澤大学の仏教学部に入学(スティーブ・ジョブズは、この前年に誕生)。駒澤大学卒業後は、京都大学大学院文学研究科に進み仏教学を専攻した。
乙川弘文

乙川家の「フーテンの寅さん」

 私は、本堂に続く庫裡(くり)で文英師の話を聞いた。庭に面した座敷からは越後の山々が見える。弘文が育った頃には、もっと自然が豊かだったことだろう。
 1967年生まれの文英師は、京都大学と同大大学院で仏教学を研究し、スイスのローザンヌ大学にも留学。その後は、曹洞宗大本山総持寺(神奈川県横浜市)で1年間の修行をおさめ、定光寺に戻り2000年より住職を務める。結婚は2002年、3男の父でもある。

「私の結婚式には、叔父も参列することになっていました。叔父は、夏を家族と門弟のいるスイスで過ごした後、その足で加茂に来る予定だったのです。そんなある日、明け方に電話が鳴りました。私はまだ床についていたので4時頃だったと思います。しかし、こういうことはお寺にはよくあることでしてね。檀家のどなたかが亡くなったのだろうと思っていたんです。ところが、電話に出た父の大声が聞こえてきましたーー『Kobun died?(弘文が死んだ?)』」
 駒澤大学および同大大学院を卒業した敬文師は、英語でも意思疎通に不自由しなかった。
 2002年7月26日。電話は弘文の門弟、ヴァニア・パーマーズからのものだった。その声は、「弘文が、パーマーズの所有するスイス、エンゲルベルクの山荘で、5歳になる娘の摩耶(まや)が池で溺れているのを救おうとして娘ともども溺死した」と伝えていた。
「叔父は金槌だったと聞いています……。家中に衝撃が走りました。しかし父が、『弘ちゃんは日本より外国との繋がりが濃いのだから、外国で亡くなった事実を大事にしよう』ということで、葬儀はスイスで行われました」




 葬儀後、弘文の遺骨は、自身が開山したカリフォルニア州ロスガトスの「慈光寺」やニューメキシコ州タオスの「鳳光寺」、教鞭を執ったコロラド州の「シャンバラ・マウンテンセンター」、パーマーズの「寂光寺」、そして、定光寺他に分骨されて納められた。
「Kobun died?」と叫んだ敬文師も、その4年後に亡くなったが、師の葬儀用の書をしたためたのは弘文だった。長い間病床にあった敬文師が、「弘ちゃんの書は筋が良いから書いておいて欲しい」と、ある年帰郷した弘文に自ら頼んだのだ。
「叔父は、書をしたためながら『全部書くと、敬ちゃんが死んじゃうといけないから一文字残しておこうかな』などと言っていました。その叔父が、父より先に逝ってしまうなんて。当時、叔父の母、つまり私の祖母はまだ存命でしたが、老いのために記憶が曖昧になっていたのがせめてもの救いでした」
乙川弘文

 弘文に対する感情は、「時期によって異なる」と文英師は語る。
「子どもの頃は、時折ひょこっとアメリカからやって来るおもしろい叔父さんという印象。パイプタバコの匂いがして、いかにも外国の風を運んでくるようでした。
 しかし、私も大人になるにしたがい、叔父の困った部分に気づき始めたのです。叔父は、ひと言で言って“当てにならない人”でした。風来坊で自由気ままに動いては、まわりの人間を振り回してしまう。叔父が動けば、必ずとばっちりを受けて後始末をする人が出る。たとえば、帰郷すると言ったきり音信不通になったかと思うと、突然大勢の門弟を連れて長逗留するといった具合です。どうして、みんなに迷惑をかけるのか。できることなら、もう少し常識的であって欲しいと何度思ったことか」
乙川弘文

 文英師によれば、弘文は「数年に1度帰郷した」そうだが、結婚を2度、同棲を1度した弘文は、それらの相手も同伴したのだろうか?
「学問で実家を離れていた時期があったので、すべてを知っているわけではありませんが、3人とも連れて来たようですよ。こんな田舎でねぇ、しかもみんな外国の方でしょ。両親は大変だったと思います」
 苦笑いする文英師に、私は思わず問いかけた。
「もしかして、乙川家の『フーテンの寅さん』?」
「そのようです」
 文英師は、そう答えて再び困ったように笑った。
「ただし、叔父は家族はもとより多くの人々から愛されました。私は会ったことも、叔父から話を聞いたこともありませんが、スティーブ・ジョブズもそのひとりだったのでしょう。もし、叔父が常識人だったらこれほど人を惹きつけただろうかと、近頃しばしば思うのですよ。亡くなり方にしても、実に叔父らしい。皆の前からふっと消えてね」
養子縁組した知野家にて

 ある人は弘文を「乙川さん」、ある人は「知野さん」と呼ぶ。それは、弘文が京大大学院時代の1960年に知野家と養子縁組をし、晩年に解消しているからだ。私は、加茂でいまひとり重要な人物を訪ねた。知野芳枝さん、87歳。曹洞宗、耕泰寺(こうたいじ)、故・知野孝英老師の未亡人である。
 越後の曹洞宗四箇道場のひとつとして栄えた種月寺(しゅげつじ/新潟市西蒲区/にしがんく)に生まれた芳枝さんは、1942年3月に女学校を卒業した翌月、耕泰寺に嫁入りした。耕泰寺は定光寺から加茂川を挟んだ対岸、徒歩10分ほどの高台にある。
 夫の孝英師はある時期、この寺の住職であると同時に、県立加茂高校の英語教諭も務めていた。弘文は当時の教え子で、その上、元々定光寺と耕泰寺が親しい間柄だったことから、子どもに恵まれなかった夫妻は、夫の強い希望で弘文と養子縁組をしたという。
「弘ちゃんは真面目で穏やか、やさしくて誠実な性格でした。人が嫌がることは絶対にしないし、わがままや反抗もなく、規則正しく時間を守り、お金の問題もない。人柄に関する心配はまったくなかったですよ。ひとりで本を読んでいることが多かったけれど、弘ちゃんのは、おとなしいといっても“晴れやかなおとなしさ”でした」
 高齢で身体が不自由なためベッドに横になったままの芳枝さんは、「こんな姿勢で申し訳ないですね」と繰り返し言っては話を続けた。
乙川弘文

 弘文は実母を「おっかちゃま」、芳枝さんのことは「おかあさん」と呼んだ。その「おかあさん」について日記に、「新しき母は樹下美人ーー花に喩せば大輪菊。鳥にたくせば深山の三光鳥(声大きく、清澄なり)」と綴っている。
「弘ちゃんの渡米に関しては、女の私に出番はないですよ。方丈(住職)である夫と弘ちゃんで決めたこと。方丈は、『1年くらいアメリカに行ってみるのも悪くはないが、1年や2年では何もつかめないし、第一、目的が曖昧だ』と心配していましたが、弘ちゃんには日本で不足な何かがあったんでしょう。
 それでも、必ず帰って来ると私は信じていました。養子縁組解消も方丈の判断です。身体が弱っていたし、後継者のことを考えると年齢的に待ちきれなかったのでしょう。私と弘ちゃんに縁を切るようなものはなんにもなかったのに……。
 縁とはこういうものかと今は思っています。人生、生まれた時にもらってくるものがあると考えるしかないですよ」




 しんみりした空気に、私は話題を変えようと、「学生時代の弘文の写真はないか」と尋ねた。
「昭和44年に新潟に大洪水があったでしょ。あれで何もかも流されちゃいました。弘ちゃんは、嵐の直前に、初渡米以来予定通り2年過ごしたアメリカから帰国したのですが、洪水の後始末にそれはそれは尽くしてくれました。今思えば、本人としてせめてもの恩返しだったのかもしれないですね」

 寺の再建のために耕泰寺で半年を過ごした弘文は、再びの、そして今度は帰国時期未定のアメリカ行きを孝英師に願い出た。この時も芳枝さんは話し合いに同席しなかったが、弘文の法話から回想部分を引用したい。
「老師がお茶を淹(い)れてくれて、私は飲みました。師が『行くのか?』と聞いたので、『はい、もう一度アメリカに戻ります』と答えました。師はひとこと『適材適所だな』と。あの時の顔を忘れることはできません。矍鑠(かくしゃく)とはしていたけれど、老いが忍びよっていました」
 新天地に思いを馳せながらも後ろ髪を引かれる弘文と、寂しさを押し殺して弘文の将来を想う老師、ふたりの切ない様が目に浮かぶようだ。
 1996年、孝英師は遷化(せんげ)したが、知らせを受けた弘文は、すぐに帰国すると、ひたすら耕泰寺につめて葬儀用の書き物をほとんどひとりで書き上げたという。
乙川弘文

 弘文が亡くなったのは、その6年後。
「弘ちゃんの死を聞いて、思い切り泣きました。声を上げてわーわー泣きました。寺で生まれ育ち、寺に嫁いだ私は、我慢なら誰にも負けません。その私が泣きました。極楽で再会したら? 小言を言ってやりますよ、『かあさんを捨てたから寿命が縮まったのよ』って。でも、これは生きている者のわがままというものですね」
 芳枝さんの話からは、弘文に対する愛情が痛いほど伝わってきた。実は私は、ジョブズが弘文に惹かれたのは、ともに養子ならではの傷を背負っていたからと想像していたのだが、どうやら見当違いだったようだ。誕生直後に養子に出され、いわば生まれた瞬間に捨てられた形のジョブズと違い、弘文は22歳で自らの意思にしたがい養子になった(『スティーブ・ジョブズ』〈講談社〉によれば、ジョブズは「捨てられたと思ったことはない」と断言したが、親しい友人たちは、「生まれたときに見限られたという思いは、傷となって残っている」と観察している)。
 文英師は、「寺を継げない坊さんは、いつまでも実家にいられるわけじゃない。それが、ごく近所の縁のある立派なお寺の養子になるのは、極めて良い話。家族にも他家にも愛された叔父は幸福な人」と説明したが、その通りだろう。
無名のままに生きて

 そんな幸せを捨ててまで、弘文がアメリカで果たしたかった禅とはいかなるものだったのか。
「叔父はジョブズが亡くなるまで無名でしたが、私は今でもそのままでいいと思っています。曹洞宗を代表する立派な僧侶とか、そんな存在ではありませんから。
 叔父がやろうとしたことは、日本の禅とは違うものだったかもしれません。アメリカの禅は日本の禅とは違い、目的をもってする禅のように私には思えます。しかし、それが間違っているともいえないんじゃないか。その土地土地に根ざした禅の進化があってもよろしいのではないか。私はそう思うし、叔父はアメリカでその手伝いをしたかったのではないでしょうか」
 文英師は最後にそう語ると、「これ、ご覧になりますか?」と、紙焼けして黄ばんだ古い大学ノートを数冊、座卓の上に並べた。
「死後、この家やアメリカで見つかった叔父の大学院時代のものです。これらを読んで、私は、これまで接してきた叔父とは、まったく違う人間像に触れた思いでいるのですよ」
 そこには、「乙川家の寅さん」からは想像もできない驚くべき内容が記されていたーー。

 






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