「Kotoba」(集英社)2012年秋号より転載/文・柳田由紀子
photo by Nicolas Schossleitner
若い頃から精神世界にのめり込んだジョブズが、生涯でもっとも長い間向き合ったのが「禅」だった。とりわけ、日本人の禅僧、乙川(旧姓・知野)弘文(こうぶん)との30年におよぶ交流がジョブズに与えた影響は絶大だった。その一端は、コミック『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』にも描かれている。知られざる禅僧の人物像に迫る。
チリン、チリン、チリンーー僧侶を先頭に、振鈴に導かれた100名余りの人々が縦列を組んで山道を静々と下りていく。目指すは小川のほとりに立つ二基の墓。かつては日本の各地で見られた法要の様だが、この一行、日本人の目にはいささか不思議に映る。禅衣を纏った20名ほどの僧侶はじめ全員が欧米人なのだ。
7月29日、カリフォルニア州中部、ロスガトスの人里離れた「慈光寺」で、故乙川弘文老師(享年64歳)と、二女摩耶(まや/享年5歳)の十一回忌、追善供養が営まれた。2002年7月26日、弘文はドイツ人の門弟を訪ねたスイスで、池で溺れかけた娘を救おうとしてともに溺死した。あれから10年。1983年に弘文が開山した慈光寺にはこの日、全米はもとよりヨーロッパからも弘文に師事した人々が駆けつけた。
私は木々を跳び回る猿だ
当日は、生前に撮影されたビデオも上映されたので、私は初めて弘文の肉声を聴くことができた。説法はすべて英語。決して流暢な発音ではないし雄弁でもないが、ややかすれた声で哲学的な単語を用いつつ、他者に思いが通じるように一語一語を丁寧に語る姿が印象的だった。また、人づてに聞いていた「時に話している本人が居眠りしてしまうほど、独特の長い間(ま)ができる」というのもその通りだった。
弘文の話には、禅の素養のない私には理解できないものも少なくないが、中で胸にすっと入ってきた法話を少々長くなるが紹介したい(実際には、これに度々「うー」「あー」、そして間が入る)。
「坐禅時に適切な姿勢を保つことを、繰り返し勧めたいと思います。なぜなら姿勢は心の鏡、身体を貫く目に見えない生の反映だからです。今ここにいる自分から抜け出せるような、滑らかで深い呼吸に身体を委ねることです。そのうちに、呼吸をしていることすら忘れる瞬間に出会います。その瞬間、魂が呼吸に彩りを与え、心や目に映っているすべての映像が呼吸の中に溶け込むのです。
この時、みなさんは、それらの映像を消し去りたいとか忘れたいと思うかもしれませんが、そうするべきではありません。見続け、起こることを起こるがままにさせるーーこれは、あなた自身のとても大切な一部だからです。現象を判断しろと言っているわけではありません。むしろ観察するのです。
日常生活では、ひとり切りになる時間などまずないでしょう。人は常に、自分が望んだ通りにならない人間関係に直面しています。生きて活動することで、来る日も来る日も、自分では処理できないたくさんの驚くべき新しい出来事に遭遇します。だから、時折、不定期に、短い時間でいいからじっと自分を見つめるのです。
人間は、賢く、意義のある生き方をしたいと願う。しかしね、なかなかそうはいかないものですよ。私たちはつらい現実にぶつかった時、早くこんな事態から解放されたいとひたすら願うでしょう。だって、自分のどこが悪いのかわからないし、なぜ、私がこんな目にと不満を感じますからね。ただし、人間というのは、他人の悪いところはよく見えたりするものです(笑)」
どうだろう、気持ちがぽっとあたたかくはならないだろうか?
法要に集った人々が一様に絶賛したのも、弘文のこのあたたかさだった。コロラド州「白梅寺」のマーティン・モスコー住職(68歳)によれば、「弘文は、物乞いをされると財布ごと渡してしまう。だから、本人はいつもお金に困っていました(笑)」。
モスコー住職は、ナーローパ仏教大学(コロラド州ボールダー)の学生だった74年、当時同大で教鞭を執っていた弘文に出会った。
「弘文ほど親切な人はこの世にいません。僕もそうなりたくて、それで心酔したんだと思う。そういえば、弘文は自分のことをこんな風に話していましたねーー『私は、木々を跳び回る猿だ。この猿は、木の上から救いを求める人を見つけると、飛び降りて抱きしめ、放さない』」
そばで話を聞いていたブランチ・ハートマン「サンフランシスコ禅センター」元住職(86歳)がしみじみと言った。
「だからでしょうね、弘文の兄、故敬文老師が生前、『人々は、私を敬ってくれる。だが、誰もが弘文を好きになる』とおっしゃっていました」
「悟りを得た」とやって来た青年、ジョブズ
ビデオの中の弘文は、スティーブ・ジョブズにも触れている。93年、スイスの小さな禅堂でのことだ。彼は、危篤状態だったポールという人物を病院に訪ねた足でスイスに来たこと、そのポールが亡くなった知らせを現地で受けたこと、そして「彼がもう苦しまないでいいと思うと幸福な気持ちにさえなる」と穏やかに語った後で、以下のように続けた。
「ポールは、いささか風変わりな男の子を養子に迎えていましてね。20年前でしたか、真夜中にその子が、カリフォルニア州ロスアルトスにあった私たち夫婦の自宅を訪ねて来たんです。裸足で長髪、髭はボウボウ、Gパンは穴だらけ。18歳だったかな。妻は『あなたの信者はおかしな人ばかり』とカンカンに怒って、家の中に入れようとしなかった。
確かに彼の服装はひどかったけれど、私には真剣味が伝わったので、夜中のふたりして街に出かけました。1軒だけ開いていたバーに入りカウンターに腰掛けると、誰もが我々をジロジロと見てね。だって、とにかく彼は臭かったんですよ(笑)。
『悟りを得た』と彼が言ったので、私は『証拠を見せてくれ』。すると『まだ見せられない』。」
「そんなことでその夜はお開きになったのですが、1週間後、彼がまた裸足でやって来て『これが悟りの証拠だ』と。そうですね、左右30センチ、上下15センチくらいの金属の板を差し出したんです。私は大きな板チョコかと思ったのですが、今思えば最初のパーソナルコンピュータのマザーボードだったんですね。
しかし、あれが悟りの証拠と言えるのかなぁ(笑)。
彼は私にしばしば『僧侶にしてくれ』と言うのですが、ダメだと答えています。だって、とても悪い修行者ですから(笑)。摂心(せっしん/一定の期間ひたすら坐禅すること)をしないんです。聡明すぎるのでしょうか、1時間以上の坐禅ができないんですよ。
うれしいのは、彼が私を、娘、リサのゴッドファーザーと思ってくれていることです」
弘文は「彼」の名を明かしていないが、誰だって、これがジョブズだとわかるだろう。その意味で「非常に珍しいこと」と弘文の弟子たちは語る。弟子の中には弘文とNeXT社にジョブズを訪ねた者や、一時期弘文が住まったジョブズの豪邸、「ジャックリング・ハウス」でジョブズと会った者もいるが、弘文がジョブズについて語ることはなかったという。
一方、アップルで成功後のジョブズも、慈光寺他、禅堂に赴くことはなく、相談事はもっぱら弘文とふたりだけの場でしていたようで、彼らがどんな問答を重ねたかは謎のままだ。
追善供養でいまひとつ印象的だったのが、日本人の姿がほぼ皆無だったことである。北米に数十人はいる曹洞宗の国際布教師さえ、ひとりも参列していなかった。
慈光寺の現住職、マイケル・ニューホール師(67歳)が解説する。
「日本人の布教師は一般に、ひとつの禅堂を開き、そこを組織的に深め広めることに専念します。反対に、弘文は組織化にまったく関心がなく、求められればどこへでも行き、僧伽(そうぎゃ、修行者の集団)とともに修行をし、禅堂を開き、僧伽が独り立ちできるようになると、風のように消えてしまう。修行自体も、山奥にこもり焚き火の前で摂心を続けるなど、日本の作法から離れて禅を裸にしたような内容でした。つまり、他の布教師と弘文は目指していたものが違ったのではないでしょうか」
私も同じことを考えていた。弘文の寺や門弟には、宗教の原型というか、インターナショナルで解放された風が吹いている。だが、それが私に野放図な“ごちゃ混ぜ観”を抱かせるのもまた事実だ。特に今回、弟子の一部が弘文を「シャーマン、ヒーラー、占星家」と讃えだした時には、戸惑いを覚えたことを正直に記しておきたい。
とまれ、弘文の法要には世界中から100名以上の人々が集まった。慈光寺の宿坊には25名しか泊まれないから、多くは森の中にテントを張ることさえして参加した。同じようにテントで夜を迎えた私は、満天の星と時折光る野生鹿の瞳の輝きに包まれて、乙川弘文の不可思議な求心力を感じていた。
アメリカへの誘い
「謹啓、秋冷の好時節となりました。お陰様にて六月七日横浜出航以来今日迄風邪ひとつひかず元気一ぱい過して来ることが出来ました。二七日ここタサハラへ鈴木俊隆老師に御一緒して参ったのでした。七月三日仮雲堂の開単式翌日より開旦過、それより九月お彼岸の中日まで二ヵ月余の禁足安居を八十余名の白人若者達と修してまいりました。朝四時振鈴から九時半開枕まで叶う限りお山式にと、ひとり十役位の忙しさで今思うと自分乍らよく身体がもったものだと不思議に思います」
1967年9月10日、弘文がアメリカで最初の赴任地、カリフォルニア州「タサハラ禅マウンテンセンター(禅心寺)」から、曹洞宗大本山、永平寺の機関誌、『傘松(さんしょう)』に寄稿した手紙の一部である。
京都大学大学院修士課程修了後の65年、弘文は永平寺の門を叩いた。その弘文に2年後、サンフランシスコの鈴木俊隆老師から「アメリカ初の本格的禅院、タサハラ開山の手伝いをして欲しい」という手紙が届く。
ふたりに面識はなかったが、鈴木老師は弘文の情報を得ていた。実は、老師はアメリカ人の弟子たちを永平寺に送っていたのだが、日本式厳格さに満ちた永平寺と彼らには摩擦が絶えなかった。そんな時、弘文が手を差し伸べたことを老師は弟子から聞いていたのだ。そして、自らも永平寺に赴き、ひそかに弘文を観察した上での誘いだった。
この時の気持ちを弘文は後年、「ドリームズ・カム・トゥルー!」と語っている。未だ貧しかった小国に住む29歳の青年としては、広い世界を見てみたかったのだろう。
サンフランシスコから南に車で5時間、カーメル渓谷の奥地、20キロ以上もの未舗装の険しい山道の果てにあるタサハラ禅マウンテンセンターは、現在も一大禅院として世界中の修行者を集める。大自然の孤島のため山火事に脅かされることも度々で、2008年には、当局の避難勧告にもかかわらず、5人の僧侶が寺に留まり火災から守り抜いたことで注目を浴びた。
タサハラ禅マウンテンセンターでは、9月下旬から4月の秋冬期は修行者およそ40名が永平寺式の生活を営み、それ以外の季節は一般客を迎え修行費用にあてる。良質の重炭酸ナトリウム温泉が湧き、アメリカ式精進料理を供すること、また基本的に電気を使わぬ「ランプの宿」といった特徴から、落ち着いたリゾートとして年間1万名の人々が訪れる。
弘文の偏見にないやさしさ
鈴木老師と門弟が、19世紀末からアメリカ人の温泉ホテルとして栄えたタサハラ(ネイティブ・アメリカン語で「肉が焼け焦げる地」の意味)を30万ドルで入手したのは67年1月。その後、日本で大工に学んだアメリカ人修行者を中心に手作りで施設を整えたが、弘文の役割は禅の作法や儀礼を教えることだった。
今では折り目正しいルールのもとに運営されているタサハラ禅マウンテンセンターだが、草創期は手探りの連続だった。
「三膳は、弘文の指導下、『応量器展鉢』と呼ばれる禅の食事作法で行いましたが、海軍払い下げの皿を使っていました。床もなく、やはり海軍払い下げの毛布に皆でくるまって寝ていました」(ボブ・ワトキンス、ニューメキシコ州「鳳光寺」元住職)
タサハラ禅マウンテンセンターの現指導者、レスリー・ジェームズさん(64歳)は、弘文のあたたかさに繋がるエピソードを伝える。
「鈴木老師の弟子に手に負えない人がいたんです。それで、こちらに迎えて彼を救おうとしたのですが、ドラッグはやる、お酒は飲む、住まいに何十匹も野良猫を飼ってゴミ屋敷にしてしまう、私たちを怒鳴り散らすと、どうにもならず結局追放することになったのです。
その彼を立ち直らせたのが弘文でした。なぜか彼は、弘文の言うことだけは聞いたのですよ。弘文の偏見のないふわっと柔らかいやさしさが魂に届いたのかもしれませんね。今、彼は仏教者として立派に生きています」
ところで、弘文の手紙には何事も順調のごとく記されているが、事実は少し異なるようだ。
「食事、言葉、永平寺との違いーー弘文は、タサハラ到着後カルチャーショックで部屋にひきこもってしまったんですよ」
そう話すのは、以前にも紹介した「バークレー禅センター」のメル・ワイツマン住職(83歳)。師は、弘文の着任時タサハラ禅マウンテンセンターにいた。
「タサハラには、永平寺と異なり若い女性修行者もいましてね、彼女たちに弘文はひどくもてたんですよ。それで怖くなって部屋にこもっちゃった(笑)。シャイな人でしたねぇ」
そんなシャイな弘文が、35年の米国生活を経て、十一回忌に100名の人を集めるほどアメリカの地に根づいていったーー。
それはどんな道のりだったのだろうか。その道程を追う前に、次号からは、弘文がアメリカにいたるまでの歳月を辿りたいと思う。