2014年06月03日

スティーブ・ジョブズが愛した禅僧、乙川弘文評伝A

弘文が創った禅道「慈光寺」を訪ねる
「Kotoba」(集英社)2012年夏号より転載/文・柳田由紀子

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若い頃から精神世界にのめり込んだジョブズが、
生涯でもっとも長い間向き合ったのが「禅」だった。
とりわけ、日本人の禅僧、乙川(旧姓・知野)弘文(こうぶん)との
30年におよぶ交流がジョブズに与えた影響は絶大だった。
その一端は、コミック
『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』にも描かれている。
知られざる禅僧の人物像に迫る。


 雲ーー乙川弘文を語る時、人はしばしば“雲”という言葉を使う。スティーブ・ジョブズが師事した弘文とは何者だったのか? それを少しでも知りたくて、私は彼が開いた「慈光寺」を訪ねた。弘文は、生涯にいくつもの禅堂を建立したが、慈光寺は中でも最も心血を注いだ寺といわれる。
 1970年、曹洞宗の開教師(現・国際布教師)として再渡米した弘文は、当初、ジョブズも通ったカリフォルニア州ロスアルトス市の「俳句禅堂」の住職を務めた。しかし俳句禅堂が、信徒の自宅ガレージを改造した小さな禅堂だったため、79年にマウンテンビュー市に移動し、名称も「観音堂」と改めた。その一方、弘文と弟子たちは、存分に摂心(せっしん/一定の期間ひたすら坐禅すること)のできる自然を求めて、都市型の観音堂とは性格の違う禅堂を創った。
 それが慈光寺(83年〜)である。

野生鹿と七面鳥に出迎えられて

 慈光寺は、シリコンバレーの奥座敷、サンタクルズ山脈に囲まれたロスガトスにある。慈光寺へと至る道は、九十九(つづら)折りが続く。ハンドルを切り損なったら、谷底に落ちそうな山道を半べそかいて運転し続けた私は、よれよれになって慈光寺に辿り着いた。そのよれよれの私を迎えたのは、野生鹿と七面鳥の行列だった。なるほど、弘文たちが豊かな自然を求めただけのことはある。
 慈光寺の標高は690メートル、広さはなんと1万6千坪。そこに大小2つの禅堂と、25名まで収容できる宿坊、集会所、僧の居住区、茶室と、5つの建物がある。敷地内には森が広がり小川が流れ、小川のほとりに弘文と娘、摩耶の墓がひっそりと建つ。
乙川弘文

 慈光寺で私は、アンジィ・ボワサヴァンさん(76歳)に会う約束をしていた。アンジィさんは現在、サンノゼで「フローティング禅堂」を主宰する尼僧で、それ以前のおよそ20年間を慈光寺で弘文に仕えた。
 慈光寺の中心、集会所で待っていると、細身で穏やかな面持ちのアンジィさんが普段着で現れた。アメリカには、アメリカ人の僧侶がたくさんいて、彼らは袈裟を着ていたりもするのだけれど、彼女を見た瞬間、「この人、袈裟が似合いそう」と私は思った。そう思わせる東洋的雰囲気が、アンジィさんには漂っていた。
「慈光寺は日本建築のように見えますが、元はクエーカー教徒の学校だったんです。私たちがここを見つけた時はヒッピーの持ち物でした。周囲にたくさんヒッピーが住んでいてね、ドラッグ、騒音、ゴミの山とそれはひどいものでした」
 初夏とはいえ山は冷える。私たちは、薪ストーブを焚いて話を続けた。
「ある日、ヒッピーがやって来て、『この土地はお前らの物じゃない。神のものだ』と嫌がらせをしたんです。私たちは慌てたのですが、弘文は静かに『その通りだ』と答えました。これが、弘文の人となりを大変よく物語っていると思います」

 セントルイスで大学を卒業後、カリフォルニアに移住したアンジィさんが、禅と出会ったのは69年。目的地を決めずドライブ旅行した際に、偶然、カーメル渓谷の「タサハラ禅マウンテンセンター」を発見した。
「おそるおそる中に入ると、そこに、生まれてからずっと聴きたかった声で話している人がいました。鈴木俊隆老師でした」
 鈴木俊隆とは、59年にサンフランシスコに渡った曹洞宗の禅僧で、弘文をアメリカに導いた人物だ。師の法話をまとめた『禅マインド ビギナーズ・マインド』(70年)は、アメリカで禅を学ぶ者のバイブル的一冊になっている。

 アンジィさんは、鈴木老師から彼女の自宅により近い俳句禅堂を紹介されて、そこで弘文に出逢った。
「俳句禅堂では、若い頃のジョブズとも一緒に坐禅を組みましたよ。けれども、彼は非常に感じが悪くてクレイジーな人だった。あんな傲慢な生き方をしていたのでは、癌にも罹ってしまいます。反対に、本当に頭の良い人だとは思いました。ジョブズに慈光寺の献金を募りに行ったこともありますが、個人には寄附するが団体はダメと断られました。でも、弘文が困ることはなかった。彼には富豪の信徒が幾人もいて、ジョブズはそのひとりにすぎなかったのです」
弘文が伝えたかったのは「法(ダルマ)」

 ところで、慈光寺は日本の曹洞宗の「海外寺院リスト」から除外されている。先月号で紹介したオークランドの「白雲山・好人庵禅堂」も「バークレー禅センター」もちゃんと認可されているというのに、これはいったいどうしたことか? 
「だって、そもそも日本に届け出ていませんから。弘文がわざとそうしたんです。彼は、日本の曹洞宗を教えたかったわけじゃない。『法(ダルマ)』を伝えたかったのです」
 アンジィさんの説明は、以前取材した「白雲山・好人庵禅堂」の秋葉玄吾老師(67歳)の話ともクロスする。あの時、秋葉師は弘文が「とことん突き抜けていて、すでに日本の宗門の僧侶なる意識が脱落していたのでは?」と推した。
 アンジィさんが続けて語る。
「弘文は、人物像を描くのがとても難しい人。悪いところもいっぱいあったけれど、釈迦の心をひたむきに学び、真実に生きたことは確かです。天才、純心、卓越した洞察力ーー。
 ある時、弘文が、海沿いの街で開かれた東洋思想のワークショップに招かれたことがありました。彼の前の講師は、集中力を発揮する居合抜きを披露し拍手喝采を浴びた。それに続けて登場した弘文は、やおら弓を引くと矢を海にボトンと落としました。集中と正反対の弛緩を見せることで、真実はひとつじゃないと示したかったのでしょう。私は、そんな弘文が大好きでした」
乙川弘文

 では、「いっぱいあった」という「悪いところ」とはなんですか?
「うーん、第一に良い家庭人ではありませんでした。離婚して別れた子どもたちにも、あまり会いに行かなかった。彼は、物心ついた時から坐禅を組み、経をよみ、十代で得度しました。逆にいえば、仏教以外の教育を受けていないのです。だからこそ純なのですが、現実的な生活適応能力にはまったく欠けていました」
 アンジィさんは最後に言った。
「突然溺死したのは、とても弘文らしいと思います。だって、好ましい死を迎えられるような人じゃありませんもの」
 その言葉には、師に対する慈しみが滔々と流れていた。
北米に禅はどう広がったのか?

 ここで少し、乙川弘文が登場する背景、北米における(日本の)禅の広がりについて触れておきたい。
 そもそも日本には、曹洞宗と臨済宗という禅の二大宗派がある。一休さんは臨済宗、良寛さんは曹洞宗、そして、乙川弘文も曹洞宗だ。
 釈迦の教えは、6世紀に禅宗を開いた菩提達磨(ぼだいだるま)によって中国にもたらされ、かの地で曹洞と臨済の二派に分かれたが、日本に曹洞宗を伝えたのは、鎌倉時代に中国に渡った道元(1200〜1253年)だった。その道元の教えを日本全国に広めたのが瑩山(けいざん/1264〜1325年)で、曹洞宗では釈迦を含めた3人を「一仏両祖」と称する。
 曹洞宗の教えは、「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすら坐ること。目的を持って坐禅するのではなく、ひたすら坐り、日常に坐禅と同じ価値を見出すというものだ。
 これに対し、臨済宗は「公案(こうあん)」といって厳しく激しい禅問答を繰り返すことを修行の旨とする。かつて、臨済宗は幕府や貴族など権力者の信仰を得、鎌倉や京都の五山十刹(ござんじっせつ)や五山文学を育んだが、曹洞宗は地方豪族や一般民衆に広がった。




 北米に最初に紹介されたのは、臨済宗の方である。1893年(明治26)シカゴ万国博覧会時に万国宗教大会が開かれ、臨済宗の僧侶、釈宗演(しゃくそうえん)が出席した。釈宗演は、この時、東洋学者で「オープンコート出版社」経営者のポール・ケーラスと巡りあう。4年後、釈宗演の仲立ちで仏教学者の鈴木大拙(だいせつ/1870〜1966年)がケーラスを訪問、彼のもと『大乗起信論』や『大乗仏教概論』を英訳出版し、これが北米における本格的禅紹介の嚆矢となった。
 大拙は、その後、ニューヨークを拠点にコロンビア大学やハーバード大学、あるいは米国上流社会で講演活動を行い、臨済宗は、東海岸を起点にアメリカ社会に浸透していった。
 かたや、北米曹洞宗の歴史は1922年(大正11)、磯部峰仙がロサンゼルスに仮教会(後の北米別院「禅宗寺」)を開いたことに始まる。磯部は、その後の34年、サンフランシスコにも「桑港寺(そうこうじ)」を創設したが、これらの寺は主に日本人移民のためのものだった。




 曹洞宗が、今日のように広くアメリカ社会に普及したのは、1950年代後半。その契機を作ったのは、カウンターカルチャーの教祖、アラン・ワッツ(1915〜1973年)だった。イギリスの哲学者、ワッツは55年サンフランシスコに移住。「アジア哲学研究所」を創設し東洋思想の研究を進めた。
「当時ワッツは、西海岸の知性に大変な影響力を持っていました」
 そう語るのは、アジア哲学研究所で禅を説いた加藤和光老師(82歳/現・カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校名誉教授、名古屋外国語大学名誉教授)だ。名古屋の禅寺に生まれた師は、国立愛知学芸大学(現・国立愛知教育大学)を卒業後、52年に曹洞宗の開教師として桑港寺に赴任、ワッツと親交を深めた。ワッツの代表作『The Way of Zen』にも師への献辞が記されている。
「禅を教えると言っても言葉だけでは意味がありません。そこで私は、桑港寺で一緒に坐禅を組もうと研究所の人々を誘ったのです」
 

禅がクールだった時代

 アメリカの物質文明に行き詰まり精神世界を求めていた人々に、坐禅や禅は充分に魅力的だった。桑港寺には、次第にアメリカ人信徒が通うようになる。
 当時の熱気を、観音堂のレス・ケイ住職(75歳)は、
「あの頃、禅はとにかくクール! 蠟燭も袈裟も、何から何まで格好良く見えた。日本から来た僧侶は、みんなアイドルみたいだった」
 と振り返る。
 その熱気を帯びたサンフランシスコに、59年、桑港寺の開教師として赴任したのが鈴木俊隆老師だった。
「鈴木老師は、まさにジャスト・タイミングでこの国に登場しました」
 こう話すのは、バークレー禅堂のメル・ワイツマン住職(83歳)。
「老師は、僕らが禅を知らないことをかえって歓迎して、上から押しつけるのではなく助ける感じで『あなたはすでにブッダなのです』など、心にスッと入る法話をしてくれました。今思えば、それは古典的な法話なのですが、真っ白な僕らには奇跡的なほど新鮮に聞こえました」
 加藤師がロサンゼルスに転勤後、桑港寺の鈴木老師のもとにはアメリカ人信徒が続々と集まり、師はサンフランシスコ禅センター(62年〜)やタサハラ禅マウンテンセンター(67年〜)などを興していった。
乙川弘文

 乙川弘文が鈴木老師に誘われて渡米したのは、この頃のことである。
 再び加藤師の解説を聞こう。
「アメリカには、2つの種類の禅堂があります。日系人用の寺と、一般アメリカ人が通うセンターですね。前者は檀家形式で、葬式や法事といった行事が主体。後者は、坐禅やワークショップが中心で、タサハラやサンフランシスコ禅センターはこれにあたります」
「そのどちらがいいとも悪いとも言えない」と語る師だが、ひとつ心配なこともある。
「最近、米国独自のアメリカン・ソウトウを創設しようという気運がある。これがどうも歪んでおるのです」
 師はそう言って、アメリカの汎仏教雑誌を開いた。そこには、「Pursuing Happiness」の文字が大きく印刷されていた。
「『幸福を追求する』とありますが、そもそも禅は何も追求しないのです。ただ只管打坐あるのみ。禅の修行には、アカルチュレーション、つまり一度自分の文化を取り払う必要があると思うのですが、アメリカ人は自分たちの文化尺度で禅を解釈、誤解しているような気がしてならないのです」
“雲”のような弘文が希求したもの

 弘文の慈光寺は、加藤師のカテゴリーでいえば一般アメリカ人向けの寺である。さらに、それらのセンターさえ日本曹洞宗の認可を受けている点と比較すれば、より奔放な思想を内包しているともいえる。
 弘文が亡くなって10年。慈光寺には現在、弘文から直接教えを受けた僧侶はいない。それでもアンジィさんは、慈光寺を「弘文の香りがする寺」と評する。それはたとえば、坐禅中でも好きな時に出て行っていいとか、警策(きょうさく/坐禅の指導などで使われる用具)を用いないといった方針に表れているという。
「警策は、それで肉体を叩くことがあるので、仕置きと捉えられがちですが、実は筋肉をリラックスさせるので気持ちが良いのです。でも弘文は、そういう用具は不要と考えました。リラックスしたいのなら、坐禅の途中でも立って歩けばいい、と。慈光寺では、誰もあなたをチェックしない、すべてはあなたのままにということなのです」
乙川弘文

 私は慈光寺で、アメリカ人僧侶や信徒に囲まれて生まれて初めて坐禅を組んだ。
「グレート・ローブ・オブ・レベレーション〜」
 ここでは、お経も英語でなんだか不思議だったものの、考えてみればインドの経を私たちは日本語でよんでいる。坐禅中は、アンジィさんの言う通り警策も飛んでこなければ、姿勢を直されることもなかった。楽といえば楽だったけれど、自分が正しく坐禅しているのかがわからなくて、不安になったのもまた事実だ。
 慈光寺を下る九十九折りを運転しながら、私は“雲”のような弘文が希求したものは、自由なだけにより困難な道だったのではないかと考えていた。
 そんな私の眼下に、息を飲むような雲海が広がった。
 






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