2013年12月27日

アメリカで「キング」と呼ばれた日本人

「週刊新潮」2011年12月8日号より転載/文・柳田由紀子

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「勤勉」「忍耐」「節約」。そんな日本人の徳目を日々実践、
アメリカの荒野に大輪の花を咲かせて「キング」と呼ばれた男たちがいた。
日米開戦で明暗を分けながらも、
日本人移民史にその名を刻んだ「キング」たちーーその夢の跡。 

「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
 真珠湾攻撃が起きたのは、今からちょうど70年前の1941年(昭和16)12月8日。「桶狭間とひよどり越と川中島とを合せ行ふ」と、山本五十六が表現した作戦は見事にはまり、日本中が奇襲攻撃による勝ち戦に沸騰した。一方この瞬間から、アメリカに渡った日本人移民たちは歴史の荒波に飲まれていった。
 日本人のアメリカへの本格的移民は、明治元年(1868)、ハワイに渡った契約労働者に始まる。その後も移民は増え続け、明治40年代に入ると米本土の日本人移民は7万人の大台を数えた。
 時代は、日清戦争から日露戦争にいたる頃。青雲の志や立身出世、殖産興業が叫ばれ、福沢諭吉は、青年の海外、とりわけアメリカへの渡航を盛んに奨励した。
 だが不慣れな異国で賭博や酒に溺れる者も多く、女衒や売春婦に身を落とす者も少なくなかった。
 それでも、明治人らしく日本人の徳目である勤勉、忍耐、節約を貫き、遂にはキングと称されるほどの成功者も現れた。塩鮭王、アワビ王に日本庭園王、さらに「四天王」と呼ばれたワイン王、ポテト王、ライス王、そしてガーリック王。彼らの多くは、カリフォルニアで莫大な資産と成功を手に入れた。そこには、日本列島がすっぽりと入ってしまうほど広大で肥沃な大地と、流入する巨大な人口があったのである。







 その財が、どれほどのスケールだったかといえばーー。
「びっくりしましたねえ。あの博覧会には父と一緒に行きました。父は私に真珠の首飾りを買ってくれたのですが、まさか建物まで買うとは……」
 そう語るのは、カリフォルニア州中部、ギルロイに住むミネコ・サカイさん(86)。ガーリックキング、故平崎清の長女である。ここで彼女が言う「あの博覧会」とは、サンフランシスコ金門橋万国博覧会を指す。
 金門橋万博は、1939年(昭和14)から翌年にかけて開催されたが、白眉と謳われたのが城郭風の日本館で、中でも日本中央蚕糸会が運営するシルク館(52坪)が人気を博した。
 シルク館では、桑の木を使用した日本座敷を再現。絹の和服を着た等身大人形や、絹製品が飾られ、日本女性による製糸の実演も行われた。
 ニンニク王が買ったのは、なんとこのシルク館だった!
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 平崎清は、1900年(明治33)熊本生まれ。農家の次男だった平崎は、14歳の時、当時アメリカで農業に従事していた父と長兄を追って渡米した。
 渡米から2年後、平崎はギルロイに辿り着き、アメリカ人夫妻が経営する種苗農家で種作りのイロハを学ぶ。さらに、1920年(大正9)、念願の土地を入手しタマネギやニンジンの種を育てた。
 当時、アメリカにはメキシコ人など、ニンニクを好む民族が続々と移住していたが、ニンニクは長丁場で手間のかかる作物のため商業ベースで栽培されてはいなかった。平崎はそこに目をつけた。
「父の事業はあれよあれよと拡大して、とうとう140万坪ほどの大農場に。畑には、父の仕事を手伝う家族の家が10軒以上も建っていました」
 と、ミネコさん。
「スティーブン・ジョッブズの伝記を読み始めたのですが、父とそっくり。何より仕事が好きで、『金があれば農地を買う。1ドルしかなかったら種を買う』といつも言っていました。だから私たちは、ずっと畑から漂うニンニクの匂いに囲まれて暮らしていたんです(笑)」
 こうして、平崎は「1941年(昭和16)までには、カリフォルニア州一のニンニク生産者になった」(『日系人の旅路』米AACP刊)。そしてある日、ニンニク王は博覧会に赴き、日本館を買ったのである。
 シルク館の値段は23,000ドル、移築には9カ月を要した。その移築先こそ、どこあろう、地元ギルロイ、ニンニク畑のド真ん中だった。
「農業は年中無休、24時間体制の仕事だから、娯楽施設は畑の近くになければならない。私はこの屋敷を、日米両国の友人を歓待する施設として使いたい」
 当時、地元紙「サンノゼ・マーキュリー・ヘラルド」に平崎自身が語った言葉である。
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13歳の密航者

 カリフォルニアといえばワインで知られるが、その黎明期に、ひとりの武士が重要な役割を果たしたことをご存じだろうか。
 話は、騒乱の幕末に遡る。
 1862年(文久2)、横浜郊外で薩摩藩士がイギリス人を殺傷、いわゆる生麦事件が起きた。事件は、その年のうちに薩英戦争へと発展。結果、薩摩藩は大痛手を負ったが、戦後「速やかに英国と和して学ぶべし」なる大英断を下した。3年後、藩は幕府に隠れて留学生を選抜、形式的に脱藩させ、変名を与えた上でイギリスに密航させた。
 留学生は、森有礼(ありのり・後の初代文部大臣)、寺嶋宗則(後の外務大臣)、鮫島尚信(後の駐米仏大使)など藩屈指の秀才15名。その中には、最年少13歳、磯長彦輔改め長沢鼎(かなえ)の姿もあった。
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「ナガサワのことは知りませんでした。最初は、日本人とワインになんの関係があるのかと不思議でした」
 長沢の写真や遺品が展示された一室で、そう語るのは、「パラダイス・リッジ・ワイナリー」のオーナー、ウォーター・ビック氏(79)だ。氏のブドウ園は、カリフォルニア州ソノマ郡サンタローザ市、かつて長沢が営んだブドウ園のほんの一歩隣にある。氏がここにワイナリーを開いたのは94年。長沢の足跡に感銘を受けて、翌年ワイナリーの一隅に小さな博物館を開いた。
「長沢は、1895年(明治28)には全2,000エーカー(250万坪)のブドウ園を所有。1910年代(明治43〜)に入ると、カリフォルニア・ワインの35パーセントを醸造、販売しました。今も昔も米ワインはカリフォルニアの独占市場ですから、つまりは全米の3割ものシェアを占めていたことになる。日本人が、それほどの影響力を持っていたなんて! 私は、ナガサワをカリフォルニア・ワインの生みの親とまではいいません。しかし確実に、創成期の偉大なリーダーのひとりだったのです」
 

 1852年(嘉永5)、薩摩藩天文方の四男に生まれた長沢は、剣術修行の後、12歳で藩の英才教育機関「開成所」に入学。先述の通り13歳で出国するが、この密航を導いたのは英国商人、トーマス・グラバーだった。渡英後はそのグラバーのスコットランドにある実家に寄寓し、やはりグラバーが卒業した中学に通学、濃厚なキリスト教教育を受けた。
 ところが2年後、日本は風雲急を告げ、倒幕の軍費に追われた薩摩藩は、留学生への送金を途絶えてしまう。困窮した学生たちは、元日本駐在英国公使館書記官に助けを求めた。元書記官は、攘夷の士に重傷を負わされ母国に帰国していたのだ。「新生兄弟社」という一種の宗教的ユートピア団体に属していた元書記官は、アメリカにある共同体本部と留学生の橋渡しをした。
 こうして長沢らは大西洋を渡り、新生兄弟社の本拠地、ニューヨーク郊外に移り住み「半労半学」の生活に入った。長沢がブドウ栽培に初めて関わったのは、この共同体においてである。
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 だが歳月が経つにつれ、共同体の思想に馴染めず去る者も現れた。また、遂に維新が成ると、森有礼ら残った留学生も帰国して行った。それでも、長沢だけは共同体にとどまった。
 その理由を、鹿児島純心女子短大・国際人間学部教授の犬塚弘明教授はこう解説する。
「書簡や日記からは、彼が日米両国の狭間で何年間も苦悩したことがわかります。しかし、その過程でコスモポリタンとして生きる道を選んだのではないか。帰国するだけが、日本の若者に割り当てられた仕事なのではない、この地で、真の文明共同体を作ろうとしたのではないかと思います」
 1875年(明治8)、新生兄弟社はより豊穣な新天地を求めてカリフォルニアに移住、ここでもブドウ園を開拓した。ブドウ園は、折からのフランスワイン不作や、8,000冊におよぶ蔵書が示す長沢の飽くなき探求により隆盛。「フォンテン・グローブ」と名付けられた彼らのワインは、カリフォルニア十大銘柄のひとつに数えられるまでに育っていった。
 共同体リーダーの死後(1906年)、長沢は名実ともに大ブドウ園の主となる。彼の元には、エジソンや高橋是清など日米の賢人が足を運び、弱冠13歳で祖国を離れた侍は、いつしかバロンと呼ばれるようになっていた。そんな長沢は生涯独身を貫いた。武士でありかつ宗教者であった長沢からは、禁欲的で孤高な人物像が浮かび上がる。
 晩年を取材した日系紙名物記者の鷲津尺魔は、「薩摩の特長たる英雄の気を其のままに洋服を着横文字を習う和魂洋才」(『日米』1924年)とワイン王を形容している。
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吸血ヒルにも負けず

 ワインキングに次いで登場したのが、カリフォルニア州中部で穀物に従事したポテトキング・牛島勤爾(きんじ・米国通称・ジョージ・シマ)と、ライスキング・国府田(こうだ)敬三郎だった。同地方は現在、全米食糧の三分の一を産する農業地だが、かつては洪水と干ばつが繰り返す荒野だった。
 その荒野をふたりは開拓した。彼らの胸に吹いていたのは、明治という時代の気風である。牛島は「日本人の名誉をかけた開墾」としばしば口にし、国府田は、「日本男子至る所に光明が輝きおり候。白人との競争には決してまけません。どーどーとやっております」と、日本宛の手紙に書き送った。
 牛島が開墾したのは、中都市ストックトンの西、大河サクラメント川とサンワーキン川が合流する前人未踏のデルタ地帯だった。開拓時の様子を、『北米スタクトン同胞史』(1937年)は以下のように記録する。
「馬を入れて畦を耕していると、突然馬が消えてしまうことがあった。泥に飲み込まれてしまうのだった」
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 その上、湿地帯特有の吸血ヒル、毒蛇、ヤブ蚊が無数におり、特にヤブ蚊は「白い馬が血みどろで真っ赤」になるほどの獰猛さ。しかし、だからこそ土地は安価だった。1888年(明治21)、25歳でサンフランシスコに渡った牛島は、皿洗いや季節労働者、ジャガイモの小作で貯めた金で、魔の地と呪われたデルタ670反を買う。時に29歳。
 沼地に土手を築き、島を作り、中から水を掻い出し、ジャングルのような草木を乾燥させた上で焼き払い、整地するーー牛島は、そんな作業を繰り返した。故郷の福岡久留米に救援を乞い、実家で家業の農家を継いでいた兄を呼び寄せることもした。
 獰猛な大自然を前に臥薪嘗胆5年。米西戦争(1898年)によるジャガイモの高騰が牛島に運を招いた。時流に乗った彼は、一気に耕地を拡大。以降は、背に羽を付けたような大躍進を遂げていくーー。

 牛島に遅れること20年、1908年(明治41)に、やはり25歳でサンフランシスコの地を踏んだ国府田敬三郎が開墾したのは、デルタの南165キロにある平原、サウス・ドス・パロスだった。今、同じ地で国府田農場を継承する孫のロスさん(47)の話を聞こう。
「裸一貫で渡米した祖父は、季節労働者として農場を転々。当時は、馬小屋やテントに暮らしていたそうです。少し蓄えができた頃、洗濯屋を営みましたが、女郎屋からの汚れた洗濯物が多く、腸チフスに罹ったとか。その後は、マグロや野菜の缶詰会社を共同経営。この会社を軌道に乗せた上で売却ところ、初めてそれなりの資産ができたのです」
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 渡米からすでに11年が経っていた。国府田は、売却益を元手に州都サクラメント郊外で4,000反を借地、米作りに着手する。増加するアジア系移民をターゲットにした米作は、当時の成長産業だったのだ。だが、天候不順と第一次大戦後の不景気で再び裸一貫に。捲土重来を期した国府田は、季節労働や歩合耕作で凌ぎながら一から蓄財に励んだ。
「かれこれ10年、なんとか息を吹き返し、安価な土地を物色し始めた祖父が出逢ったのが、交通不便で荒れた僻地、ここサウス・ドス・パロスでした。1927年(昭和2)、祖父は44歳にしてようやく自作農になったのです」  
 荒れているとはいえ、敷地は堂々3反の広さ。だが、その広さが逆に重荷になった。日本式に田植えをしていたのでは、人件費と馬代で追いつかない。そこで解決策として考案したのが、大胆にも飛行機を使っての播種だった。たまたま近所に元飛行士がいたことから思いついたアイデアだったが、元飛行士とともに試行錯誤の末、「空からの稲作」を成功させた。
 アメリカ流の米作りを確立した国府田は、遅咲きながらライスキングへと昇りつめていくーー。

ポテト王への賛否

 牛島と国府田−−後年、修身や道徳の教材に載るほどの成功をおさめたふたりは、いったいどんな人柄だったのだろう。
 国府田は、福島県いわき市出身。一家は、農業や精米業を営んだが暮らしは厳しかった。高等小学校を出るとすぐに農家に働きに出る。数年後復学し、苦学して師範学校(簡易科)を卒業。卒業後は、三阪村立差塩尋常小学校(現いわき市立差塩小学校)に赴任し、約40名の生徒の担任兼校長になった。
 国府田は、同校で5年間校長を勤めた後に渡米したが、それは誰にでもチャンスを与えるアメリカ流資本主義に憧れてのことだった。
 戦前、国府田農場の近所に在住したフローレンス・ホンゴウさん(82)が回想する。
「大恐慌後、日系人の暮らしはひどく苦しくて。そんな時、国府田さんは近隣の人々に何年間も原価でお米を譲ってくれたんです。『金持ちはえばるものだが、国府田さんはたいしたもんだ』と、母がいつも言っていました。優しさが尊敬を生み、人がついていく。そういうリーダーシップの持ち主でした」
 国府田に関しては、同様の感想を語る人が多い。そんな国府田の口ぐせは、「おごるなよ 月のまろさも ただ一夜」。
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 対して、牛島については賛否両論である。
「今までに会った人の中で、一番好きな顔、羨ましいと思った容貌の一人は牛島氏だ」 
 これは、有馬頼寧(よりやす)子爵(当時)が『ポテトキングの思い出』に惚れ惚れと書いた一文。男の顔は履歴書というが、どうやら牛島には人を惹きつけるオーラがあったようだ。生前無数に掲載された記事からも、剛気で颯爽、胆力のあるケタ外れの快男児ぶりが伝わってくる。
 そもそも牛島の渡米動機は、東京高等商業(現一橋大)の受験失敗にあった。「不合格の原因は英語能力不足。英語を学ぶなら本場」と考え即刻行動に移ったのだ。即断即決、ただでは起きずエネルギッシュ、誠に起業家にふさわしい素質を備えていたといえよう。
 反対に、牛島の投機性や貪欲を指摘する声も少なくない。スタンフォード大教授の市橋倭(やまと・1878〜1965)にいたっては、「生まれつき民主的ではないし、知的な日本人より20年は遅れている」と、もうボロクソである。実は牛島の本名は清吉。勤爾と名づけたのは、福岡時代の師、漢学者江碕済(わたる)だが、「才気に走る自信家なので、それを諫める意味で“爾を謹むべし”とした」という。
 とまれ、牛島は絶頂期、カリフォルニア州ポテト市場の85パーセントを占めた。国府田は国府田で、4万反まで耕地を増やし、日本米を初めてアメリカに本格的に普及した。今、彼らが開墾した大地に立てば、農業というより土木業に近いスケールの大きさに驚くばかりである。
 だが、そんな彼らの王国に、排日と戦争の波がひたひたと押し寄せていた……。
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 意外に知られていないことだが、米連邦議会は初の帰化法(1790年)で、「外国人の帰化権を自由な白人」に制限している。そのアメリカで日本人移民が年々増加。しかも、アメリカ人には想像もできないほど勤勉に働き、恐るべき競争者になったことから排日運動が盛り上がった。
 日米間は、紳士協定を交わし移民を厳しく制限したが(1907年)、事は治まらず、西部諸州は外国人土地法を制定。日本人移民による土地の購入、使用、譲渡を禁じた。その上、1924年(大正13)、米政府は突如として紳士協定を破棄し、日本人の移民を全面的に禁止した。
 死活問題を抱えた日本人移民は「在米日本人会」を設立。初代会長に我がポテト王を選出する。会長になった牛島は、サンフランシスコ郊外に豪邸を購入。スタンフォード大総長や渋沢栄一、後藤新平など日米要人を自邸で接待、会合を重ね、排日系新聞社を買収するなど精力的に動いたが、流れは止められなかった。
 ちょうどその頃、牛島の事業は第一次世界大戦後の不況で決定的打撃を受け、社員に対し遅配欠配すら生じる事態に陥った。1926年(大正15)、牛島は会長職を辞し、日本への一時帰国を計画する。が、出発直前に急用が生じロサンゼルスへ赴いたところ、脳溢血で容体が急変。運び込まれたハリウッドの病院で急逝した。享年63歳。
 故郷の久留米にある「ポテト王を語る会」事務局長の田中国弘氏によれば、
「死後は長男が事業を継ぎましたが、往年の輝きはとり戻せず、日米戦を挟んだ昭和28年には農園そのものを売却したようです。今、一家にポテトに関わっている人は誰もいません」
 1975年(昭和50)、地元、サンワーキン・デルタ短大は、牛島の功績を讃えて校舎の一部をシマ・センターと命名。また、デルタ地帯にはシマ・トラクトの地名も残るが、牛島を知る人々は年々減る一方だ。かつて牛島の農園で働く人々で賑わった日本人街も、今ではゴーストタウンと化して、崩れかけた建物にちらりと見える日本的意匠が切ない。
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 牛島と親交があった長沢鼎は、排日土地法の影響をまともに受けた。長沢自身は土地法成立以前に土地を所有していたが、法改正によって、アメリカに呼び寄せた親族に土地の譲渡が不可能になったのだ。
 その上、長沢の死後(1934年)、新生兄弟社の残党が乗り込み、長沢家の人々を農園から追放してしまう。その後、ワイナリーは閉鎖。建物も一部を除いて解体された。
 以来、近年になって再発見されるまで、長沢の存在は忘れ去られていた。2007年(平成19)年、サンタローザ市はワイナリーの跡地に、ナガサワ公園を創設。地元に「カゴシマ友好協会」も創設されて、二つの都市は学生交換プログラムなど交流を深めている。
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「米の王国」は今も

 牛島と長沢は戦前に死去したが、ガーリックキング、平崎清の事業は、真珠湾攻撃時その絶頂期を迎えていた。
 日米が開戦すると、米国政府は、ただちに日系社会の指導的立場にいた者たちを検挙した。平崎もFBIに捕らえられ、ノースダコダの抑留所に送られた。件のニンニク御殿を移築し終わってたった2カ月後のことだった。
 平崎がギルロイに戻ったのは戦後。
「父は事業を再開し栄えましたが、戦前の規模には戻りませんでした。不在だった間に、他の人々に市場を奪われてしまったのです」(長女ミネコさん)
 平崎家は、今も畑の一部を所有しているが、皆高学歴で弁護士になるなど平崎の事業を継いだ者はいない。さらに、数年前漏電でニンニク御殿は全焼してしまった。
「残っているのはこれだけ」
 ミネコさんが、万博会場で使用されたという古いベンチを指差した。

 平崎が抑留所にいた頃、ライスキング、国府田敬三郎はコロラド州の日系人収容所にいた。米政府は開戦の翌年から、西海岸諸州他の軍事区域に居住する日系人およそ11万人を強制収容したのだ。
 戦中、国府田は、アメリカ人顧問弁護士に当時の金額で2億以上あった資産の管理を託したが、戦後農場に戻ると、弁護士は無断で資産を売り飛ばしていた。残った土地はわずか十分の一。
 この時、国府田はすでに63歳。出直すには高齢の域に入っていたが、不撓不屈の精神で立ち上がる。残された土地で息子たちと米作を再開し、徐々に土地も買い増していった。そして戦後十年。プレミアム米「国宝ローズ」を開発し、戦前以上の大飛躍を遂げた。
 国府田が急逝したのは、1964年(昭和39)。祖国日本を訪問中に脳卒中に倒れた。米帰化権法が改正され、アメリカ国籍を取得して十年後のことだった。
 元「北米毎日新聞社」社長で日系史研究家の野本一平氏(79)は、「一世キングに共通するのは明治人の反骨」と解説する。
「伝統的武士道と、明治という時代を作り上げた気概ですね。岡倉天心も新渡戸稲造もみんなそうです。筋がひとつあって、その上で世界を相手にしました。排日だろうが負けない強さがあった。今日の脆弱な日本人とは対照的です」
 キングたちの王国が消えていった中、残ったのが「米の王国」というのも興味深い。「国宝ローズ」は現在も全米に流通するが、ハワイはもちろん一大マーケット。国府田ロスさんによれば、70年前に日米戦が始まった真珠湾を見下ろす丘にも数軒、ロスさんのお米を扱う店があるという。

 




posted by 柳田由紀子 at 21:34| Comment(6) | 日系アメリカ人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
突然のお便りをお許しください。

LAで映画製作をしております岡野と申します。
柳田様とは私がすずきじゅんいち監督作品442の制作時に
一度お会いした事があります。
現在、トーヨータイヤさんの協賛で国府田敬三郎のドキュメンタリーフィルム
”SEED” ライスキングとその家族 を制作中です。
柳田様も書かれておりますがフローレンス・ホンゴウさんについてお伺いしたい
事があります。国府田敬三郎と実際に会って知っている現存者が少なく
制作に難儀しております。
お忙しいとは存じますが、お時間を頂けますでしょうか?

本作品は今年の春からクランクインしております。
農場の四季折々の撮影を行っており、敬三郎と孫のRoss(現在の農場オーナー)をオーバーラップさせながらストーリーは進行しております。
監督には2007年度アカデミー賞のファイナリスト馬場正宣さんを迎え、ハリウッドで活躍中の若手スタッフの情熱で進んでおり、来年の5月に完成予定です。

ご連絡をお待ちしております。

岡野
Posted by 岡野進一郎 at 2014年10月30日 00:45
ご無沙汰しております。
コメント拝受、拝読。
実は明日から二週間、ヨーロッパで取材旅行です。戻ってきてからでも間に合いますか?
Posted by 柳田由紀子 at 2014年10月30日 10:27
お戻りになったらご連絡頂けると幸いです。
宜しくお願い致します。
Posted by 岡野進一郎 at 2014年10月31日 11:05
スイスの田舎におりネットと接続できませんでした。連絡遅くなりました。では、11/20以降に再度連絡ください。なお、次回からは以下のサイトのContact欄からご連絡くださいませ。
http://www.yukikoyanagida.com
Posted by 柳田由紀子 at 2014年11月04日 00:49
国府田敬三郎の出身、いわき市の市議会議員をしている吉田みきとと申します。地域の子どもたちに郷土愛を持ってもらいたいという思いで、いろいろ活動しております。すでに映画撮影はクランクアップしているとのことですが、映画に関して何かお手伝いできることがあればと思って、書き込みさせて頂きました。
なお、6/24に国府田米店を訪問し、国府田英二様から映画の経緯・進捗等のお話しを伺ってきました。「国府田農場の歴史」というDVDも拝見し、あらためて、ライスキングの足跡の大きさを感じたところです。
差し支えなければ、ご連絡頂戴できれば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
Posted by 吉田みきと at 2015年06月25日 11:02
吉田みきと様:フェイスブックにメッセージを送ります。
Posted by 柳田由紀子 at 2015年06月25日 14:28
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